「自分で考えてごらんなさいよ、グリゴーリイ・ワシーリエウィチ」と「スメルジャコフ」は勝利を意識しながら、敗れた相手を寛大に扱うといった感じで、まじめくさって淀みなくつづけた。
「自分で考えてごらんなさい、グリゴーリイ・ワシーリエウィチ。聖書にだって書いてあるでしょうに。せめていちばん小さな穀粒ほどの信仰を持っているなら、この山に向って、海に入れと言えば、山はその命令一つで、少しもためらうことなく、海に入るだろうって。どうですか、グリゴーリイ・ワシーリエウィチ、もしわたしが不信心者で、あなたがのべつわたしを叱りつけるほど信仰が篤いんだったら、ためしに自分であの山に向って、海にとは言わぬまでも(なぜって海はここから遠いですしね)、うちの庭の裏を流れている、あの臭い溝川になりと入るように命じてごらんなさいよ、そうすればそのとたんに、いくらあなたが叫んだところで、何一つ動こうとせず、何もかも今までどおりそっくりしつづけていることが、わかるでしょうから。これはつまり、グリゴーリイ・ワシーリエウィチ、あなただって本当の意味では信仰しておらずに、ほかの者をなんだかと叱りとばしているだけだってことじゃありませんか。あなただけじゃなく、現代ではだれ一人、それこそいちばん偉い人から、いちばんどん尻の百姓にいたるまで、文字どおりだれ一人、山を海に入らせることなぞできやしないんです。もっともこの地上全体に一人か、多くて二人くらいは、そんな人もいるかもしれませんが、それだってどこかエジプトの砂漠あたりで、こっそり行を積んでいるでしょうから、見つかりっこありませんよ。だとすればですね、もし、あとの人たちがみんな、つまり、その二人ばかりの隠者を除いて、この地上の住人がみんな不信心者ということになれば、はたしてその人たち全部を神様が呪って、あれほど慈悲深いことで知られておいでなのに、だれ一人赦してくださらぬ、なんてことがあるもんでしょうか?だからわたしは、いったん疑ったとしても、後悔の涙を流せば、赦してもらえるだろうと期待しているんです」
ここで、「スメルジャコフ」が「聖書にだって書いてあるでしょうに」という信仰の篤い人が山に向って海に入れというとそうなるという話は、「新約聖書 マルコ11章22~25節」に出てきます。
11:22 イエスは答えて言われた。神を信じなさい。
11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。
また、「山」というのは、ユダヤ的慣用句で「解決困難な問題」を意味することばであり、信仰はそういった山をも移す力を持っているということで、これは、信仰者本人にその力があるというのではなく、信じている主なる神が超自然的なみわざを行われるという意味だそうです。人には出来ないことであっても<神にはどんなことでもできる>(マタイ19:26)そうです。
そして、私が山を動かすのではなく、主がなしてくださるのです。◇自分の人生において一度でも山が動いた経験をしている人は、その後の人生においてどんな山が立ちはだかっても、決してひるむことはないでしょう。山が大きければ大きいほど、ますます全能の主に祈り求めることが出来るのです。そうやって私たちは、天の御国に行き着くまで、いくつもの山を動かしてゆくのです。山が動いて海に入ると、行く道は平らになり、また阻んでいた海に道ができます。主の備えてくださる道は<小道>で<恵みとまこと>です(詩25:4,10)。◇戦いは山にではなく私にあります。大切なことは<心の中で疑わず>です。ヤコブは<疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようだ>と語っています(ヤコブ1:6~8)。多くの人が、自分が祈ったことを自分で信じていないのです。主イエスも戒めて<祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。>と言われます。山が動かない理由は、どうやら私の心の中にあるようです。「すでに得たり」と信じる信仰を逞しく、揺るがないものにしたいものです。
以上はネットで「祈りで山が動く」について書かれていることの一部です。
「聖書」の解釈の違いですね。
0 件のコメント:
コメントを投稿