これから、「スメルジャコフ」の長い発言です。
そして彼は実際には「フョードル」の質問に答えているのですが、何度も何度も「グリゴーリイ・ワシーリエウィチ!」と呼びかけながら、「グリゴーリイ」に話しかけるように喋っています。
これは、召使としての心得なのだと思いますが、話の内容は主人の「フョードル」に楯突くようなことを言っており、それだからこそ、正面切って主人と話せないのでしょうが、全く話の相手ではない「グリゴーリイ・ワシーリエウィチ!」と何度も何度も話しかけるのは、ちょっと変わっているというか不自然です。
そして、その不自然さが「スメルジャコフ」の心の闇のような、あるいは彼の不気味さのようなものを表していると思います。
「スメルジャコフ」は「フョードル」の言った「お前だって迫害者の前で信仰を棄てるのは、信仰以外に何も考えることがないときだからの話で、本当はそういうときこそ信仰を示さにゃならんはずなんだぞ!そういうことになると思うがね?」を受けて話します。
「なることはなりますがね、でも考えてごらんなさいよ、グリゴーリイ・ワシーリエウィチ、そうなるからこそ、なおのこと気が楽なんですよ。かりにそのときわたしが、信仰の手本みたいに、本当に信仰していながら、自分の信仰のために迫害を受けることをせず、いまわしいマホメット教にでも転向したとすれば、たしかに罪深いでしょうよ。でも、そういう場合なら、迫害を受けるまでにいたりもしないはずです。なぜって、わたしがその瞬間に山に向って、動け、この迫害者を押しつぶしてくれ、と言いさえすれば、山が動きだして、たちどころに迫害者を油虫みたいに押しつぶしてくれるでしょうし、わたしは何事もなかったように、神をたたえ崇めながら帰ってこられるはずですからね。でも、もしわたしが、まさしくそうした瞬間にあらゆることを試みた末、もはや山に向って、この迫害者どもを押しつぶしてくれと、わざわざ頼んでも、山が押しつぶしてくれなかったとしたら、どうしてその場合に疑いをいだかずにいられるでしょう、それも死というたいへんな恐怖を前にした恐ろしいときに、ですよ?それでなくたってわたしは、天上の王国にはとうてい行きつけないことを承知しているのに(なにしろ、わたしの言葉で山は動かなかったんですからね、つまり、わたしの信仰なんぞ天国ではあまり信用してもらえないんだし、あの世でわたしを待っている褒美もたいしたものじゃなさそうですからね)、いったい何のために、そのうえ、何の得にもならないのに、皮を剥がれなけりゃならないんですか?だいたい、背中の皮をすでに半分もひん剥かれたとしても、そのときになったってわたしの言葉や叫びでは山は動きゃしないでしょうからね。そんな時になれば、疑いを起しかねぬどころか、恐ろしさのあまり分別そのものまで失くすかもしれないんです、そうすりゃ判断なんぞ全然できやしませんよ。とすれば、あの世にもこの世にも自分の利益や褒美が見あたらないために、せめて自分の皮くらい守ろうとしたからといって、なぜわたしが特に罪深いことになるんですか?だから、わたしは神さまのお慈悲を大いに当てにして、すっかり赦していただけるだろうという希望をいだいているんですよ・・・」
う~ん、何を言っているのかわかりません。
まず第一に、迫害者に信仰を聞かれてキリスト教を遵守した場合。
彼はキリストに助けを求めるでしょうが、聞き入れてもらえません。
その場合は、神は彼の信仰を足りぬものとしていますから、山は動かず、助けてはくれません。
そして、彼は皮を剥がされて殺され、そのときにキリスト教を遵守したにもかかわらず信仰が足りぬという訳ですので、天上でも迫害されるのです。
これでは、「あの世にもこの世にも」いいことはありませんね。
そして第二に、迫害者に信仰を聞かれて転向した場合。
その瞬間、彼がキリストに助けを求めれば、山は動き彼を助けることでしょう。
つまり、彼がキリストを信じていているということになります。
そして彼は何事もなかったように、神をたたえ崇めながら帰ってきます。
「スメルジャコフ」が熱心に語ったことを以上のようにまとめましたがよくわかりません、違っているかもしれません。
マホメット教とは、イスラム教の俗称で主にヨーロッパで用いられました。
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