そして、「俺にとっちゃ・・・ええ、おい!お前らはまだ子供だし、小さな子豚も同然だから、わからんだろうが、俺にとって、これまでの生涯に醜い女なんて存在しなかったよ、これが俺の主義なんだ!お前たちにこれがわかるかい?わかるはずはないさな。お前らはまだ、血の代りにオッパイが流れてるんだし、殻が取りきれてないんだから!俺の主義から言や、どんな女にだって、ほかの女には見いだせないような、畜生、度はずれにおもしろいところが見いだせるもんなんだぜ-ただ、そいつを見つけだすすべを知らなけりゃいかん。そこがミソさ!これは才能だよ!俺にとっちゃ、醜女(ぶす)なんて存在しなかったね。女であるというそのことだけで、すでに全体の半分はそなわっているんだから・・・お前らになんぞわかるもんか!オールドミスでさえ、時には、どうしていたずらに年をとらせて、これまで目をつけなかったのかと、ほかのばか者どもに呆れかえるほかないような、すてきなところが見つかるもんだよ!はだしの小娘や醜女(ぶす)は、まず最初に面くらわせちまうことが必要なんだ、これが攻略のこつだよ。知らなかっただろう?そういう女はまず面くらわせといて、わたしみたいな賤しい女をこんな立派な旦那さまが見そめてくださったと、感激させ、射すくめて、恥じ入らせてしまわにゃいかんよ。いつの世にも召使と主人がありつづけるというのは、実にすばらしいことだ。それだから、いつでもこういう掃除女が見つかるんだし、そういう主人が現れるという仕組みさ、なにしろ人生の幸福に必要なのはこれだけなんだからな!まあ待て・・・よくきけよ、アリョーシカ、俺は死んだお前の母さんをいつも面くらわせてやったもんさ、ただ違うふうにだがね。俺はふだんは決して彼女にやさしくしてやらなかったんだが、潮時を見て、突然でれでれしはじめ、ひざまずいたり、足にキスしたりして、最後はいつだって-そう、まるでたった今のことみたいに思いだすな、最後はいつだってかわいらしい笑い声をあげさせたもんだった。小刻みな、大きくはないがよくひびく、神経質な、一種特別な笑い声をな。あれは彼女にしかない笑い声だったよ。彼女の病気がいつもそんなふうにして始まることを、俺は承知してたんだ。明日になれば、癲狂病みになって叫びだすってことも、今のこのかわいらしい笑いが何の喜びをあらわすものでもないってことも、知ってはいたんだが、しかし、たとえ偽りでも、喜びにはちがいないからな。あらゆるものの中にその特徴を見つける腕というのは、つまり、こういうことだよ!あるとき、ベリャフスキーが-そういうハンサムな金持がいたんだよ、彼女にモーションをかけて、しげしげと出入りしとったんだが、そいつが俺の家で、いきなり俺に頬びんたを食らわせやがった、それも彼女の目の前でさ。そしたら、あんなに羊のようにおとなしいとばかり思っていた彼女が、その頬びんたに怒って、俺を殴りそうなくらい凄い剣幕で食ってかかるじゃないか。『あなたは今ぶたれたのよ、ぶたれたんですよ、あの男に頬びんたを食ったのよ!あなたはあの男にあたしを売ろうとしたのね・・・よくもあたしの前であなたをぶったりできるもんだわ!今後、絶対にあたしのそばに近づかせないから!今すぐ追いかけて、決闘を申し込んでちょうだい・・・」と、叫ぶんだ。そこで俺は彼女を静めるために修道院へ連れていって、神父さんたちにお祓いをしてもらったよ。しかしな、誓ってもいいが、アリョーシャ、俺はお前の癲狂病みの母さんを一度も侮辱したことはなかったよ!いや、たった一度だけある、それも結婚したその年にな。そのころ、お前の母さんはとてもお祈り好きだったし、特に聖母の祭日は大切にして、そんな日は俺を書斎に追い払ったもんだ。そこで、よし、そういう神がかりを体内からたたきだしてやろう、と思ってな。『ほら、見ろ、お前の聖像だぞ、どうだ、俺はこいつをはずすからな。よく見てろよ、お前はこれを奇蹟の聖像と思いこんでるらしいが、俺が今お前の目の前でこいつに唾をひっかけてやる、それでも罰なんぞ当りゃせんから!』そのときの彼女の目つきときたら、いや、今にも俺を殺すんじゃないかと思ったくらいさ。だけど、彼女は跳ね起きて、両手を打ち合せたあと、いきなり両手で顔を覆って、全身ふるえはじめ、床に倒れるなり・・・そのまま気絶しちまったんだ・・・おい、アリョーシャ、アリョーシャ!どうした、どうしたんだ!」
「フョードル」は一種独特の女性観を披瀝しています。
それは、女性の容姿容貌にかかわりなく、女というだけで誰でもいいところが見い出すことができ、そのいいところを見い出すというのが、ひとつの才能であり能力なんだと言います。
このような女性観は一般的なものではありませんが、人間全般におよぶ真理が含まれているとも言えなくもありません。
「アリョーシャ」の母「ソフィヤ」と「ハンサムな金持」だという「ベリャフスキー」との関係は、「フョードル」の一筋縄では行かないような奥深い悪巧みを感じます。
また、信仰深い「ソフィヤ」の聖像を侮辱する行為などもあわせて考えると「フョードル」のサディステイックな歪んだ暗い内面性をあらわしており、これらのことを自分の子供に話すということも、異常だと思われます。
今までもそういうことがいろいろと散見されたのですが、おそらく「フョードル」には親子関係という概念が欠落しているのでしょう。
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