修道院を彼はぐるりとまわり、松林をぬけてまっすぐ僧庵に行きました。
この時間にはもうだれも入れぬことになっていましたが、彼には戸を開けてくれました。
長老の庵室に入ったとき、心がふるえました。
『なぜ、なぜ自分は外に出て行ったのだろう、なぜ長老は自分を《俗世間》へ送りだしたのだろうか?ここには静寂があり、ここは聖地なのに、向こうは混乱と闇で、入っただけですぐ自分を失い、道に迷ってしまうんだ・・・』
まだ、今日の長い一日は終ってないのですね。
長老が「アリョーシャ」を《俗世間》へおくりだした理由は語られてはいませんが、彼に試練を与えるためというようなことではないでしょう。
このことはよくはわからないのですが、長老自身が宗教の世界とそれ以外の現実の世界とを超越したようなところがあると思います。
もちろん宗教の世界を絶対的に信じていることは確かですが、「フョードル」もたぶん感じていると思うのですが、それだけではないようなところがあります。
確かに修道院の外部におけるたった半日あまりで「アリョーシャ」は、とんでもない生々しい、見方を変えれば、きらきらして生き生きして、どろどろした経験に身を晒しました。
平和で静寂で繭の中でしっかりと守られた世界から荒れ狂う大波の航海に出て行く小舟のようでした。
長老は「アリョーシャ」のことを、修道院の内部にだけの人間ではなく、外の世界で何かするべき使命をおびた人物だと判断したのでしょう。
庵室には見習い僧の「ポルフィーリイ」と、終日「ゾシマ長老」の容態をききに一時間おきに寄っているという、司祭修道士の「パイーシイ神父」がいました。
「アリョーシャ」はきいて慄然をしましたが、容態はますます悪化する一方ということでした。
修道僧たちとの恒例の、晩の対話さえ、今日は行うことができませんでした。
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