2017年5月18日木曜日

413

いつもは毎晩、勤行のあと就寝前に、修道僧たちが長老の庵室に集まり、各人がその日犯した罪や、罪深い空想や考え、誘惑、またかりにそういうことあった場合には仲間うちの口論などまで、声にだして長老に告白することになっていました。

なかにはひざまずいて懺悔する者もありました。

長老はそれらを解決し、和解させ、訓戒を垂れ、反省を求め、祝福を与えて、退出させるのでした。

こうした修道僧たちの《懺悔》に対して、長老制度の反対者たちは、実際にはまるきり違うのに、それが秘事であるべき懺悔の俗化であり、冒涜にもひとしいと言って、攻撃していました。

なかには、こんな懺悔はいい目的をはたさぬばかりか、実際にはことさら罪と誘惑に導くものだと、監督区長に言いつける者さえありました。

修道僧たちの多くは長老のところへ行くのを重荷に感じているのですが、みなが行くため、自分だけ傲慢な反乱分子と思われたくないばかりに、仕方なく集まるのだ、と言うのでした。

修道僧たちの中には、晩の懺悔に行くにあたって、何か話す材料を作って、厄のがれをするために、あらかじめ仲間うちで『俺は今朝君に腹を立てたというから、話を合わせてくれよ』と取りきめておく者もある、などと話すのでした。

また、修道僧たちの受けとる肉親からの手紙さえ、しきたりによって最初は長老のもとに届けられ、受信人より先に長老が開封することに対して、ひどく憤っている者がいることも、彼は承知していました。

もちろん、本来こうしたことはすべて、自発的な謙譲と有益な訓戒とのために、本心から自由に行われねばならないのが建前なのですが、実際にいざ蓋を開けてみれば、時としてきわめてふまじめに、それどころかむしろ、わざとらしく偽善たっぷりに行われるのでした。

しかし、修道僧の中でも経験豊かな年長の人たちは、『おのれを救うために、本心からこの囲いの中に入ってきた者にとっては、こうした修行や献身的行為は疑いもなく有益であって、きっと大きな利益をもたらしてくれる。反対に、重荷に感じたり、不平をこぼしたりする者は、修道僧でないも同然で、修道院に入ったことが、むだなのだから、そういう者のいるべき場所は俗世間にしかない。俗世間のみならず、聖堂にいてさえ、しょせん罪悪や悪魔からおのれを守りぬくことはできないのだし、したがって罪悪を見のがす必要はまったくない』と考えて、自説を固守していました。

ここは、長老制度の賛否についての一般論となっています。

反対する者は反対するということで、理由はさまざまです。


しかし、この修道院では「ゾシマ長老」のもとでこの「晩の対話」は続けられていたということです。


0 件のコメント:

コメントを投稿