2017年5月25日木曜日

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「アリョーシャ」はあとになって、このとき長老の言ったことのうち、いくつかを思いだしました。

しかし、話しぶりは明瞭でしたし、声もなかなかしっかりしてはいたものの、話そのものはかなり脈絡のないものでした。

彼はいろいろのことを話しました。

まるで、死の瞬間を前にして、一生のうちに言いつくせなかったことを、全て言っておきたい、もう一度何もかも話しておきたい、それも単に説教のためだけではなく、自分の喜びと感動をみなと分ち合い、生あるうちにもう一度心情を吐露しておきたいと渇望するかのようでした・・・

「互いに愛し合うことです、みなさん」のちに「アリョーシャ」の思いだしたかぎりでは、長老はこう説きました。「神の民を愛しなされ。わたしらは、ここに入ってこの壁の中にこもっているために、世間の人たちより清いわけではなく、むしろ反対に、ここに入った人間はだれでも、ここに入ったというそのことによってすでに、自分が世間のすべての人より、この世の何よりも劣っていると、認識したことになるのです・・・だがら修道僧たる者は、この壁の中で永く暮せば暮すほど、ますます身にしみてそのことを自覚せねばなりません。でなかったら、ここに入る理由もないわけですからの。自分が世間のだれより劣っているばかりか、生きとし生けるものすべてに対して、さらには人類の罪、世界の罪、個人の罪に対して、自分に責任があると認識したとき、そのときはじめてわたしたちの隠遁の目的が達せられるのです。とにかく、われわれの一人ひとりがこの地上に生きとし生けるものすべてに対して疑いもなく罪を負うていることを、それも世界全体の一般的な罪というだけではなく、各人一人ひとりが地上のあらゆる人たち、すべての人に対して罪を負うていることを、わきまえねばなりません。この自覚こそ、修道僧の修業の、そしてまた地上のあらゆる人の栄誉にほかならないのです。なぜなら、修道僧とは何も特別な人間ではなく、地上のすべての人が当然そうなるべき姿にすぎんのですからの。そうなってこそはじめて、われわれの心は満つることを知らぬ、限りない、世界の愛に感動することでしょう。そのときこそ、あなた方の一人ひとりが愛によって全世界を獲得し、世界の罪をおのが涙で洗い清めることが可能になるのです・・・だれも自分の心のまわりを歩み、たゆみなくおのれに懺悔することです。自分の罪を恐れることはありませぬ。たとえそれを自覚しても、後悔しさえすればよいので、神さまと取りきめごとなどしてはなりませぬぞ。くりかえして言いますが、おごりたかぶらぬことです。あなた方を斥ける者、辱しめる者、そしる者、中傷する者を憎んではいけません。無神論者、悪を説く者、唯物論者など、彼らのうちの善き者だけではなく、悪しき者をさえ憎んではいけない。とりわけ今のような時代には、彼らのうちにも善い人はたくさんいるのですからね。その人たちのことは、こんなふうに祈ってやるのです。主よ、だれにも祈りをあげてもらえぬ人々をお救いください、主に祈りを捧げようと思わぬ人々をもお救いください、とな。そして、さらにこう付け加えるといい。主よ、わたしはおごれる心からこう祈るのではございません。何となればわたし自身、だれよりも汚れた人間だからです、と・・・神の民を愛して、侵入者に羊の群れを略奪されぬようにするのです。もし、怠惰や、いまわしいおごりの心や、そして何よりも物欲などにひたって眠っていれば、四方から侵入者がやってきて、あなた方の群れを奪ってゆくでしょうからの。たゆまず人々に福音書の教えを説いてやりなさい・・・賄賂を受けてはなりませぬ・・・金銀を愛したり、貯えたりしてはなりませぬ・・・信仰を持ち、旗をかかげ持つことです。その旗を高くかかげてゆくのです・・・」

これは「アリョーシャ」があとになってまとめたとのことですが、「ゾシマ長老」が修道僧のみんなにぜひとも伝えたかった最後の大事な言葉ですね。

永く修道院の生活を続けていると、ついおろそかになってしまいそうなことを戒めの意味を含めて言っているようです。

つまり、一言で言えば、おごらないで謙虚になれということですが、おそらく誰もがわかっている普通の忠告でしょうが、わかっているようでもわかっていないことに気づかせるための言葉だと思います。

ひとつわからなかったのは、「・・・だれも自分の心のまわりを歩み、たゆみなくおのれに懺悔することです。自分の罪を恐れることはありませぬ。たとえそれを自覚しても、後悔しさえすればよいので、神さまと取りきめごとなどしてはなりませぬぞ。」という部分です。


「神さまと取りきめごと」とはどういうことを言っているのでしょうか。


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