2017年5月26日金曜日

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もっとも、長老の話しぶりは、ここに記されている、のちに「アリョーシャ」がまとめたものより、ずっと断片的でした。

ときおり、長老は気力をふりしぼるかのように、ぴたりと口をつぐみ、息をあえがせていたが、しかし歓喜に包まれているかに見えました。

みなが感動してきいていたものの、それでも多くの者が長老の言葉におどろき、そこに曖昧さを見た・・・これらの言葉に思い当ったのは、のちのことです。

この「・・・」は何でしょうか。

判読不明でしょうか、それともこの部分の詳細はのちに思い当たったことなので意図的に書かなかったのでしょうか。

「アリョーシャ」はたまたましばらくの間、庵室から離れたとき、庵室の中やまわりにつめかけている修道僧たちに共通する興奮と期待とにおどろかされました。

その期待はある人々の間ではほとんど不安に近く、他の人々の間では厳粛なものでした。

だれもが長老の死後ただちに何か偉大なことの生ずるのを期待しているのでした。

こんな期待は見方によればほとんど軽薄と言ってもよいものでしたが、もっとも厳格な老僧たちさえ、影響されていました。

いちばん厳格なのは、司祭修道士「パイーシイ」老僧の顔でした。

「アリョーシャ」が庵室を離れたのは、「アリョーシャ」にあてた奇妙な手紙を「ホフラコワ夫人」からことづかって町からやってきた「ラキーチン」に、さる修道士を介してひそかに呼びだされたからにほかなりませんでした。

夫人は「アリョーシャ」に、きわめてタイミングよく舞いこんだ興味深い知らせを教えてよこしたのでした。

ほかでもない、昨日、長老に挨拶して祝福を受けるために来た信心深い平民の女たちの間に、一人、町の老婆で、「プローホロヴナ」という下士官の未亡人がいました。

彼女は、遠いシベリヤのイルクーツクへ赴任したきり、もう一年も音沙汰のない息子「ワーセニカ」を、死者として教会で法要を行なっていいかどうかを、長老にたずねたのでした。

これに対して長老は、その種の法要を妖術にひとしいときめつけて固く禁じ、きびしい口調で答えました。

しかし、そのあと長老は彼女の無知を赦し、「ホフラコワ夫人」の手紙の表現によれば、《まるで未来の本でものぞき見るかのように》、「倅のワーセニカは疑いもなく達者でおって、近く本人が帰ってくるなり、便りをよこすなりするはずだから、お前さんは家に帰って、待っているがいい」と慰めを付け加えました。

このへんのくだりは(173)(174)の部分です。

『ところが、どうでしょう?』と「ホフラコワ夫人」は感激して書き加えていました。

『この予言が文字どおり的中したのです、いえ、それ以上ですわ』老婆は家に帰るなり、すでに待ち受けていたシベリヤからの便りをすぐさま渡されたのです。

しかも、それだけではありません。

旅の途中、エカテリンブルグから書いたその手紙で、「ワーセニカ」は自分は今ある役人といっしょにロシア本土へ帰る旅の途上にあり、この手紙がついて三週間ほどのちには『母を抱擁するつもりでいる』ことを、知らせてよこしたのです。

エカテリンブルグという地名はやはり『女帝エカテリーナ』に由来しているそうです。


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