2017年5月29日月曜日

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問題は、この修道僧が現在すでにある種の懐疑におちいっていて、何を信じたらよいのか、ほとんどわからずにいる、という点にありました。

まだ、昨夜のうちに彼は、養蜂場の裏にある離れ家の庵室に「フェラポンド神父」をたずね、その対面からそら恐ろしくなるような異常な感銘を受けて、心を打たれたのでした。

この「フェラポンド神父」については、「ゾシマ長老」の、そして特にまた有害で軽薄な新制度と見なしている長老制度そのものの反対者としてすでに前に述べたことがあるが、斎戒と無言の行とを固く守っているいちばん高齢の修道僧でした。

(109)で「もっとも古い修道僧の一人で、偉大な無言の行者であり、まれに見るほどの斎戒精進者である高僧のように、きわめて著名な、修道院での重要な顔ぶれも何人か入っていた」と書かれていました。

無言の行者である彼はほとんどだれとも言葉を交わさなかったにもかかわらず、反対者としてきわめて危険な存在でした。

彼が危険である最大の理由は大勢の修道僧たちが心から彼に共鳴しているばかりか、礼拝にくる俗世の人たちの大多数も、彼を疑いもなく神がかり行者と認めていながら、偉大な苦行者、教義の実行者として敬っていたからです。

もっとも、神がかり的なところが魅力にもなっていました。

「フェラポンド神父」は「ゾシマ長老」のところへは一度も足を運んだことがありませんでした。


僧庵の規律にさほど束縛されていませんでしたが、これもやはり彼がまるきり神がかり行者のように振舞っているためでした。


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