2017年6月3日土曜日

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「恐ろしいお言葉でござります!ところで、偉大な神父さま」修道僧はますます勇を鼓して言いました。「あなたさまに関して、なんでも聖霊とたえず交わりを結んでおられるとかいうたいへんな噂が、遠隔の地にさえも伝わってまいりますが、あれは本当でございますか?」

「聖霊」はウィキペディアでは以下のように説明しています。

キリスト教内の各教派において、聖霊についての捉え方・考え方には、共通する部分と異なる部分がある。東方教会と西方教会の間には、聖霊が「父(なる神)からのみ発出する」とするか、それとも「父(なる神)と子(なる神)から発出する」とするかを相違点とするフィリオクェ問題がある。正教会の神学者ウラジーミル・ロースキイは、フィリオクェ問題を東西教会の分裂の根源的かつ唯一の教義上の原因であるとしている(なお、20世紀末以降、西方教会側で「フィリオクェ」を削除ないし再考する動きが散見される)。カトリック教会とプロテスタントの間においては、聖霊に関する教理が16世紀の宗教改革において聖書を優先していくプロテスタントの中心にあったとされることがある。当時カトリック教会側においては、枢機卿ロベルト・ベラルミーノから、プロテスタントにおいて聖霊論と関係する教理である救いの確信を、プロテスタントが異端であることの最たるものとする批判があり、またカトリック司祭エドマンド・キャンピオンは、聖霊論にプロテスタントとカトリック教会との根本的な相違があると捉えていた。このように教派ごとの相違点があり、論者によっては重要な争点と位置付けられる一方で、論者によっては、伝統的な神学では聖霊論は非常に軽視されてきた分野であると評される事もある。

以上のようにたいへんわかりにくいですね。

私がキリスト教系の幼稚園に行っていた時は、食事の前に必ず「「父と子と聖霊とみなにおいてアーメン」とお祈りしていましたが当然当時も今も何のことかわかりません。

「飛んでくるな。時々あることだ」

「飛んでくると申しますと?どんな姿で?」

「鳥さ」

「聖霊が鳩の姿をしてですか?」

オブドールスクの修道僧は、どうして「鳥」と言われただけなのに「鳩」と限定して言ったのでしょうか。

そのとき丁度鳩がいて、「フェラポンド神父」がそれを指差したのかもしれません。

「聖霊のこともあるが、精霊(みたま)のときもある。精霊はまた別で、ほかの鳥の姿で降りてこられることもあるのだ。燕になったり、カワラヒワであったり、四十雀だったりな」

精霊(みたま)とは何か調べました。

精霊(スピリット、せいれい)とは、草木、動物、人、無生物、人工物などひとつひとつに宿っている、とされる超自然的な存在。他に「万物の根源をなしている、とされる不思議な気のこと」。精気[1]や「肉体から解放された自由な霊[1]」を意味する場合がある。

以上、とのことです。

これもよくわかりませんが、「聖霊」と「精霊(みたま)」とは別物だと言うことは確かです。

「その四十雀がどうして精霊とおわかりになるのでござります?」

もうこのへんでオブドールスクの修道僧は完全に「フェラポンド神父」をからかっているようにみえますね。

「口をきくからだ」

「口をきくともうしますと、どんな言葉で?」

「人間の言葉よ」

「で、どんなことを申されるのですか?」

「現に今日は、ばか者がやってきて、役にも立たんことをきくだろうと、お告げがあった。まったく、いろんなことを知りたがるやつだ」

「恐ろしいお言葉でござります、聖なる神父さま」修道僧は首を振りました。

しかし、怯えたようなその目には、不信の色もうかがわれました。

「この木が見えるか?」しばらく沈黙していたあと、「フェラポンド神父」がだずねました。

「見えます、神父さま」

「お前が見れば、これはただの楡だが、わしの目には別の眺めが映るのだ」

「どんな眺めで?」はかない期待をいだいて修道僧は口をつぐみました。

「夜ふけて、しばしばあることだ。あの二本の枝が見えよう?夜ふけになると、あれがさながら、キリストさまが両手をわしの方へさしのべて、わしを探しておるように見える。はっきりとそれが見えて、わしはふるえおののくのだ。恐ろしい、じつにおそろしいことだ!」

「キリストさまであれば、べつに恐ろしいこともござりますまいに?」

完全にバカにしていますね。

「ひっとらえて、連れて行こうとなさるのでな」

「生きながら、でございますか?」

「精霊とイリヤの栄光とに包まれての。きいたことがないのか?抱きかかえて、連れて行こうとするのだ・・・」


「イリヤ」とは、「エリヤ(エリア、イリア、イリヤとも表記される)は、旧約聖書に登場する預言者。「エリヤ」とはヘブライ語で「ヤハウェ(主)は我が神なり」の意。『列王記』に名が見え、バアル崇拝への熱心な反対者、ヤハウェ信仰の守護者として描かれる。新約聖書『ヨハネによる福音書』では、旧約聖書を代表する預言者として言及される。イスラーム教においてはイルヤース (إلياس) としてクルアーンに記述される預言者」とのことです。


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