2017年6月4日日曜日

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この会話のあと、オブドールスクの修道僧は指定された修道僧の一人の僧庵へ、かなり強い懐疑に包まれながら戻ったが、彼の心はやはり疑いもなく、「ゾシマ長老」よりも「フェラポンド神父」のほうに傾いていました。

これは驚きましたが、オブドールスクの修道僧はあんな支離滅裂なことを言った「フェラポンド神父」に惹かれているのですね。

作者は決して「フェラポンド神父」を好意的に描いているとは思えないのですが、そちらの方にオブドールスクの修道僧が好意を寄せているというのですから不思議です。

この修道僧は、高齢であるにもかかわらず遠くから、強い問題意識をもってやってきたのですから、最大の注意を払っていろいろと観察し、理解し、判断しようと考えているのだと思います。

オブドールスクの修道僧は何よりもまず斎戒の支持者でしたし、「フェラポンド神父」ほどの偉大な斎戒行者ならば、《奇蹟を見る》こともふしぎではありませんでした。

神父の言葉はもちろんとっぴのようでありましたが、あの言葉の内にどんなことが含まれているかわからないし、神がかり行者というのはみな、あれ以上の言動をしばしば示すのです。

尻尾をはさまれた悪魔の話なぞ、比喩としてだけでなく、そのままの意味でさえ、心から喜んで信じだい気持でした。

世の多くの人は、オブドールスクの修道僧のように「フェラポンド神父」のような一途な修行をしている人物を理由なしに尊敬の目で見るということなのでしょう。

そして、そのような人の言動には何らかの意味があると思っているのでしょう。

そればかりではなく、彼はこの修道院にくる以前からすでに、それまで話でしか知らなかった長老制度に対してひどく偏見をいだき、他の多くの人にならって有害な新制度と頭から決めてかかっていたのです。

すでに修道院で一夜を送り、長老制度に反対する一部の軽薄な修道僧たちのひそかな不平をも、彼はいち早く見ぬいていました。

おまけに彼は生来、何事に対しても好奇心が旺盛で、どこにでも首をつっこむ、すばしこい男でした。

だからこそ、「ゾシマ長老」によって、実現された新しい《奇蹟》というたいへんなニュースが、彼を極度の懐疑におとしいれたのです。

「アリョーシャ」はあとになって思いだしたのですが、長老の近くや庵室のまわりにひしめき合う修道僧たちの間に、だれにでも質問してまわっている好奇心の強いオブドールスクの客人の姿が、なんども目の前にちらついていたものでした。

しかし、そのときはそんな客になどほとんど注意を払わず、あとになってからすべてを思いだしたにすぎませんでした・・・そんな客人どころではありませんでした。


ようするにオブドールスクの修道僧は典型的な俗物だと思うのですが、作者はそういう人物さえもうまく組み込んで作品に厚みをだしています。


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