「常に肝に銘じておくのだよ」と、「パイーシイ神父」は何の前置きもなく、単刀直入にこう切りだしました。「俗世の学問は、一つの大きな力に結集し、それも特に今世紀に入ってから、神の授けてくださった聖なる書物に約束されていることを、すべて検討しつくしてしまったため、俗世の学者たちの冷酷な分析の結果、かつて神聖とされていたものは今やまるきり何一つ残っていないのだ。しかし、彼らは部分部分を検討して、全体を見おとしているので、その盲目ぶりたるや呆れるほどだよ。全体は以前と同じように目の前にびくともせずに立ちはだかっているというのに、地獄の門もそれを征服できんのだからのう。はたしてこの全体が十九世紀間にわたって生きつづけてこなかっただろうか、今も個々の心の動きの中に、大衆の動きの中に生きつづけているのではないかね?すべてを破壊しつくした、ほかならぬ無神論者たちの心の動きの中にも、それは以前と同じように、びくともせずに生きつづけているのだよ!なぜなら、キリスト教を否定し、キリスト教に対して反乱を起している人たちも、その本質においては、当のキリスト教と同じ外貌をし、同じような人間にとどまっておるのだからの。いまだに彼らの叡智も、心の情熱も、その昔キリストの示された姿より、さらに人間とその尊厳にふさわしいような立派な姿を創出することができないのだからな。かりにその試みがあったにせよ、できあがるのは奇形ばかりなのだ。このことを特に肝に銘じておくんだね、お前はまさに他界されようとしている長老さまによって、俗界におもむくよう定められたのだからの。おそらく、この偉大な日を思いだすことによって、わたしが心からのはなむけとして送ったこの言葉も忘れずにいられるだろう。なにぶん若いし、俗世の誘惑はきついので、お前の力だけでは堪えぬけないだろうからな。さ、それでは行っておいで、みなし児よ」
この言葉とともに、「パイーシイ神父」は彼に祝福を与えました。
「パイーシイ神父」の言葉の中心となるのは「全体」という言葉で、これが何をさしているのかわかりません。
「全体」は俗世の学者が見おとしていることであり、以前とおなじように目の前にたちはだかっており、地獄の門も征服できず、十九世紀間いき続け、今も個々の心の動きの中に、大衆の動きの中に生きつづけており、無神論者たちの心の動きの中にも生きつづけていると書かれています。
そして、キリスト教の否定者であってもその本質においては当のキリスト教と同じ外貌をし、同じような人間にとどまっており、いまだに彼らの叡智も、心の情熱も、その昔キリストの示された姿より、さらに人間とその尊厳にふさわしいような立派な姿を創出することができないと。
つまり、ここで言う「全体」とは、神の叡智のようなことでしょうか。
「パイーシイ神父」は今から俗世に行こうとしている「アリョーシャ」にはなむけとして送った言葉だと言い、自分の力だけでは俗世の誘惑に勝てないのでこの言葉を忘れないようにと言っています。
ということは、「全体」とは神の視線のようなことであり、神はいついななる時にでもいるということでしょうか。
イメージとしては全体が神に包まれているということでしょうか。
最後に言った「みなし児よ」という言葉の意味は何でしょうか。
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