修道院を出ながら、この思いがけぬ言葉を考えているうちに、「アリョーシャ」はふいに、これまで自分に対して厳格できびしかったこの修道僧の内に、今や思いがけぬ新しい友と、自分を熱愛してくれる新しい指導者とを見いだしたことをさとりました–さながら、「ゾシマ長老」がいまわのきわに彼のことを神父に託したかのようでした。『ことによると、お二人の間で本当にそんな話があったのかもしれない』–突然「アリョーシャ」は思いました。たった今きかされた、思いがけない学問的な考察こそ–ほかの何かではなく、まさにあの考察こそ、「パイーシイ神父」の心情の熱烈さを証明するものにほかならなかったのです。
神父はできるだけ早く、「アリョーシャ」の若い知性に誘惑とたたかうための防備を施し、遺言で託された若い精神のまわりに、自分でもそれ以上に堅固なものは考えつかなぬような防壁をめぐらそうと、もはや急いでいたのでした。
「遺言で託された若い精神のまわりに」というのは、「ゾシマ長老」の言葉「そらごらん。必ず行くのだよ。悲しむのではない。お前のいるところでこの地上での最後の言葉を言い残すことなしに、わたしは死なんからの。その言葉はお前に言うのだ、お前に遺言するのだよ。お前にな。なぜならば、お前はわたしを愛してくれているからの。だから今は、約束した人たちのところへ行っておあげ」との話を受けており、まだ何か内容はわかりませんが、将来的にまもなく語られようとする遺言のことです。
その貴重な言葉を受けることになる「アリョーシャ」に対し、というかその言葉に対しその言葉を守るために「パイーシイ神父」は神とともに誘惑とたたかえと言っているのですね。
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