「あなたに一つたいへんなお願いがございますの、アレクセイ・フョードロウィチ」
彼女はまっすぐ「アリョーシャ」を見つめながら、一見まるで本当に今しがた何事も起らなかったかのような、冷静な、淡々とした声で切りだしました。
「一週間前に、そう、たしか一週間ほど前に、ドミートリイ・フョードロウィチがある気短な、とても対面にかかわる、間違った行いをなさったんです。この町にあまり芳しくない場所がありますの、さる飲屋ですけれど。そこであの人が例の退役将校に、ほら、いつぞやお父さまが何かの事件でお使いになったとかいう例の二等大尉にお会いになったんです。どういうわけか、ドミートリイ・フョードロウィチはその二等大尉にひどく腹を立てて、顎ひげをつかむなり、そんな屈辱的な格好のまま衆人環視の中で往来に引きずりだし、往来でも永いことひきまわしていたそうですわ。話によりますと、その二等大尉の息子さんで、ここの中学校で学んでいる、まだほんの小さな坊やが、それを見て、そばを駆けまわりながら、大声で泣き叫び、父親のために赦しを乞い、みんなにすがりついて助けてくれるように頼んだりしたのに、みんなはげらげら笑っていたそうなんです。ごめんなさい、アレクセイ・フョードロウィチ、あたくし彼の(二字の上に傍点)こんな恥ずべき行為を思いだすたびに、憤りを禁じえませんの・・・・まさに怒りと、持前の激情に狂ったときのドミートリイ・フョードロウィチでなければ、とうていなしえないような行為の一つですわ! あたくし、お話しすることもできませんわ、とてもそんな気力がございませんの・・・・言葉につまってしまいますもの。ひどい目に会わされたその人のことを調べたら、とても貧しい人だってことがわかったんです。苗字はスネギリョフといいますの。勤め先で何か落度があって、馘にされたんだそうですけれど、あたくしにはそれはとても話せませんわ。今その人は家族をかかえて、それも病気のお子さんたちと、どうやら気が狂っているらしい奥さんとの不幸な家族をかかえて、おそろしい貧困に落ちこんでいるんです。この町にはもうだいぶ古くからいらして、何かのお仕事をしたり、どこかで清書係をなさったりしていたのに、それが今ふいに何の収入もなくなってしまったんですわ。あたくし、あなたをちらと見て・・・・つまり、こう思いましたの。あたくし、どうしたのかしら、なんだか混乱してしまって。いえね、あなたにお頼みしようと思ったんですの。アレクセイ・フョードロウィチ、あなたはほんとに気立てのやさしい方ですもの。ぜひその人のところへ行って、口実を見つけて、そのお屋敷に、いえ、つまりその二等大尉の家に入って–まあ、ほんとにあたくし、どうかしてますわ、そしてデリケートに気を使って、つまりあなたでなければとてもできないような具合に(アリョーシャはふいに真っ赤になった)、この寸志を、ここに二百ルーブルありますけれど、これを渡していただきたいんです。きっと受けとってくれますわ・・・・つまり、受けとるように説得してほしいんですの・・・・それともおいや、どうかしら? おわかりいただけるでしょうけれど、これは告訴させぬための示談金というわけではなく(なぜって、その人はどうやら告訴する気らしいんですもの)、ただのお見舞いというか、援助したい気持のあらわれにすぎませんし、それもあたくしからの、ドミートリイ・フョードロウィチの婚約者であるあたくしからのもので、あの人自身からではないんです・・・・一言で言えば、あなたなら立派におできになりますわ・・・・あたくしが自分で参ってもよろしいんですけれど、あたくしなぞよりあなたのほうがずっとお上手にやってくださいますもの。その人はオジョールアナヤ通りの、カルムイコワという平民の女性の家に暮していますわ・・・・お願いですわ、アレクセイ・フョードロウィチ、あたくしのためになさってくださいませんか。ではこれで・・・・あたくし少し・・・・疲れましたので・・・・いずれまた・・・・」
「カテリーナ」の長い話でした。
この中で「あの人が例の退役将校に、ほら、いつぞやお父さまが何かの事件でお使いになったとかいう例の二等大尉にお会いになったんです」というのは、ずっと前の(335)で「親父の代理人をしている例の二等大尉がグルーシェニカに俺名義の手形を渡しているんだ。」というところに登場する人物です。
また、「その二等大尉の息子さんで、ここの中学校で学んでいる、まだほんの小さな坊やが、それを見て、そばを駆けまわりながら、大声で泣き叫び、父親のために赦しを乞い、みんなにすがりついて助けてくれるように頼んだ」のは、もちろん「アリョーシャ」の指に噛みついた少年ですね。
本来なら、「アリョーシャ」にあれだけひどいことを言われているわけですので、頼みごとなどする気持にはなれないと思いますが、そのあたりが普通の精神の持ち主ではないのですね。
かりに、そんなことがなくても「あたくし、あなたをちらと見て・・・・あなたにお頼みしようと思ったんですの」というのは、人を馬鹿にしたひどい話だと思います。
彼女はふいにすばやく身をひるがえすと、ふたたび戸口のカーテンの奥に姿を消してしまったので、「アリョーシャ」は一言も口をきく暇がありませんでした。
が、彼としては話をしたかったのです。
胸がいっぱいでしたので、赦しを乞うなり、自分を責めるなり、せめて何か言っておきたかったし、それをせずに部屋を出るのはどうにもいやでした。
それにしても「カテリーナ」は言いたいことだけ言って退散していますがどういうことでしょう。
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