2017年8月22日火曜日

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「じゃ、何からはじめるか、言ってくれよ。お前が注文するんだ。神の話からか? 神は存在するか、ということからかい?」

「何でも好きなものから、はじめてください。《反対側》からでもかまいませんよ。だって兄さんは昨日お父さんのところで、神はいないと断言したんですから」

「アリョーシャ」は探るように兄を眺めました。

「俺は昨日、親父のところで食事をしながら、そう言ってお前をわざとからかったんだけど、お前の目がきらきら燃えたのがわかったよ。でも今はお前と話す気は十分あるんだし、とてもまじめに言ってるんだ。俺はお前と親しくなりたいんだよ、アリョーシャ。俺には友達がいないから、試してみたいのさ。だって考えてもみろよ、ひょっとすると俺だって神を認めているかもしれないんだぜ」

「イワン」は笑いだしました。

「お前にとっちゃ、思いもかけぬ話だろう、え?」

「ええ、もちろんですとも。ただし、今も兄さんがふざけているのでないとすればね」

「冗談じゃないよ。昨日も長老のところで、俺はふざけてるって言われたっけね。あのね、十八世紀に一人の罪深い老人がいたんだが、その老人が、もし神が存在しないのなら、考えだすべきである、S’il n’existait pas Dieu,il faudrait I’inventer.(訳注 ヴォルテールの『三人の偽君子に関する書の著者へあてた手紙』の一節)、と言ったんだ。そして本当に人間は神を考えだした。ここで、神が本当に存在するってことは、ふしぎでもなければ、別段おどろくべきことでもないんだ。しかし、人間みたいな野蛮で邪悪な動物の頭にそういう考えが、つまり神の必要性という考えが、入りこみえたという点が、実におどろくべきことなんだよ。それほどその考えは神聖なんだし、それほど感動的で、聡明で、人間に名誉をもたらすものなんだな。俺自身に関して言えば、俺はもうずっと前から、人間が神を創りだしたのか、それとも神が人間を創ったのか、なんて問題は考えないことにしているんだよ。もちろん、この問題に関する現代のロシアの小僧っ子たちの公理なんぞ、どれもこれもヨーロッパの仮説からの孫引きだから、検討するつもりもないよ。なぜって、向うの仮説が、ロシアの小僧っ子にかかると、とたんに公理になってしまうし、それが小僧っ子だちだけじゃなく、どうやら大学教授たちまで、そうらしいからな。それもいうのも、ロシアの大学教授も今やきわめて往々にしてロシアの小僧っ子と変りないからなんだよ。だから、いっさいの仮説は敬遠しよう。だって、今の俺たちの課題は何だと思う? ほかでもない、できるだけ早くお前に俺の本質を、つまり、俺がどういう人間であり、何を信じ、何を期待しているかを説き明かすのが、課題なんだ、そうだろう? だから俺は、率直かつ単純に神を認めるってことを、名言しておくよ。それにしても、断っておかなければならないが、かりに神が存在し、神がこの地球を創ったとすれば、われわれが十分承知しているとおり、神はユークリッド幾何学によって地球を創造し、三次元の空間についてしか概念を持たぬ人間の頭脳を創ったことになる。にもかかわらず、宇宙全体が、いや、もっと広範に言うなら、全実在がユークリッド幾何学にのみもとづいて創られたということに疑念を持つ幾何学者や哲学者はいくらもあったし、現在でさえいるんだ。きわめて著名な学者の中にさえな。そういう学者たちは大胆にも、ユークリッドによればこの地上では絶対に交わることのありえぬ二本の平行線も、ひょっとすると、どこか無限の世界で交わるかもしれない、などと空想しているほどなんだ。そこでね、そんなことすら俺には理解できぬ以上、神について理解できるはずがない、と決めたんだよ。そういう問題を解く能力が俺にまるきりないことは、素直に認める。俺の頭脳はユークリッド的であり、地上的なんだ。だから、この世界以外のことはとうてい解決できないのさ。お前にも忠告しておくけど、この問題は決して考えないほうがいいよ、アリョーシャ、何より特に神の問題、つまり神はあるか、ないかという問題はね。

まだ、「イワン」の発言の途中です。

「イワン」は一体何でしょうか、彼は言うことがいろいろ変わるので私には彼が神を信じているのか、信じていないのかわかりません。

それとも、「イワン」も自分が神を信じているのか、信じていないのかわからないのでしょうか。

(221)にあるように、昨日「イワン」は長老の庵室で「ミウーソフ」が「イワン」の発言として言ったことですが、「たとえば現在のわれわれのように、神も不死も信じない個々の人間にとって、自然の道徳律はただちに従来の宗教的なものと正反対に変わるべきであり、悪行にもひとしいエゴイズムでさえ人間に許されるべきであるばかりか、むしろそういう立場としては、もっとも合理的な、そしてもっとも高尚とさえ言える必然的な帰結として認められるべき」と言っており、「ゾシマ長老」は「もし、そう信じておられるのなら、あなたはこの上なく幸せか、さもなければ非常に不幸なお人ですの!」と言っています、そして、「なぜ不幸なのです!」との「イワン」の質問に対して「なぜなら、あなたは十中八、九まで、ご自分の不死も、さらには教会や教会の問題についてのご自分の書かれたものさえも、信じておられぬらしいからです」と言われています。

それは、ともかくとして、「ユークリッド幾何学」が出てきましたので、ネットで調べて見ました。

説明の優劣がわかりませんので、任意に取り上げてみたのが以下の説明です。

「幾何学の源流はユークリッドによる 原論(Elements)である.漢訳名は幾何原本(前半6巻は1607年にマテオ・リッチと徐光啓により漢訳された)であるがここでは日本語版([6])に従って原論ということにする.原論には序文,前書きのようなものは一切存在しない.また,動機や計算例も書かれていない.ただ,定義,公理,定理,証明が続くのみである.全体は13巻で構成されているが,各巻の構成は以下の通りである.最初の6巻は初等平面幾何,次の3巻は数論,X巻は無理数論,最後の3巻は立体幾何学である.」

そして二本の平行線の交差については、命題[I-29]に「平行線の2つの錯角は等しい.」とあり、その証明としてⅠ巻の公準の5に「直線が2直線と交わるとき,同じ側の内角の和が2直角より小さいなら,この2直線は限りなく延長されたとき,内角の和が2直角より小さい側において交わる.」そうです。

なんだか、よくわかりませんが、凡人から見れば当たり前の事を書いているようです。

そして、「イワン」が自分の頭脳は地上的なユークリッド幾何学であるので、理解できないと言っている非ユークリッド幾何学とは次にように説明されていました。

「非ユークリッド幾何学は、ユークリッド幾何学の平行線公準が成り立たないとして成立する幾何学の総称。非ユークリッドな幾何学の公理系を満たすモデルは様々に構成されるが、計量をもつ幾何学モデルの曲率を一つの目安としたときの両極端の場合として、至る所で負の曲率をもつ双曲幾何学と至る所で正の曲率を持つ楕円幾何学(殊に球面幾何学)が知られている。ユークリッドの幾何学は、至る所曲率0の世界の幾何であることから、双曲・楕円に対して放物幾何学と呼ぶことがある。大雑把に言えば「平面上の幾何学」であるユークリッド幾何学に対して、「曲面上の幾何学」が非ユークリッド幾何学である。」

この非ユークリッドは数学的には証明されているのでしょうが、観念的には全くわかりません、だから「イワン」は神の存在については「お前にも忠告しておくけど、この問題は決して考えないほうがいいよ」と「アリョーシャ」に言うのです。


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