「イワン」の発言の途中からです。
「これはすべて、三次元についてしか概念を持たぬように創られた頭脳には、まるきり似つかわしくない問題なんだよ。というわけで、俺は神を認める。それも喜んで認めるばかりか、それ以上に、われわれにはまったく測り知れぬ神の叡智も、神の目的も認めるし、人生の秩序や意味も信じる。われわれがみんなその中で一つに融和するとかいう、永遠の調和も信じる。また、宇宙がそれを志向し、それ自体が《神にいたる道》であり、それ自体が神にほかならぬという言葉(訳注 キリストを意味する)も、俺は信じるし、そのほかいろいろと無限に信じるよ。この問題については数限りない言葉が作りだされているからな。どうやら俺も正しい道に立っているようじゃないか、え? ところが、どうだい、結局のところ、俺はこの神の世界を認めないんだ。それが存在することを知っているものの、まったく許せないんだ。俺が認めないのは神じゃないんだよ、そこのとこを理解してくれ。俺は神の創った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できないのだ。断っておくけど、俺は赤児のように信じきっているんだよ-苦しみなんてものは、そのうち癒えて薄れてゆくだろうし、人間の矛盾の腹立たしい喜劇だっていずれは、みじめな幻影として、あるいはまた、原子みたいにちっぽけで無力な人間のユークリッド的頭脳のでっちあげた醜悪な産物として、消えゆくことだろう。そして、結局、世界の終末には、永遠の調和の瞬間には、何かこの上なく貴重なことが生じ、現れるにちがいない。しかもそれは、あらゆる人の心に十分行きわたり、あらゆる怒りを鎮め、人間のすべての悪業や、人間によって流されたいっさいの血を償うに十分足りるくらい、つまり、人間界に起ったすべてのことを赦しうるばかりか、正当化させなしうるに足りるくらい、貴重なことであるはずだ。しかし、たとえそれらすべてが訪れ、実現するにしても、やはり俺はそんなものを認めないし、認めたくもないね! たとえ二本の平行線がやがて交わり、俺自身がそれを見たとしても、俺がこの目でたしかに見て、交わったよと言うとしても、やはり俺は認めないよ。これが俺の本質なんだ、アリョーシャ、俺のテーゼだよ。俺はまじめに話したんだぜ。俺は、これ以上愚劣な切りだし方はないといった感じで、お前との話をはじめたけれど、結局は俺の告白になっちまったな。それというのも、お前に必要なのはそれだけだからさ。お前に必要なのは神についての話じゃなく、お前の愛する兄が何によって生きているかえお知ることだけなんだよ。だから俺は話したのさ」
「イワン」は長口舌を、ふいに、何か一種特別な思いがけぬ感情をこめて結びました。
「イワン」はこの中でそれが自分のテーゼであるとまで言っていることは、神は認めるが神が創った世界は認めないということです。
これは、どういうことでしょうか。
たとえ平行線が交わるところを見たとしても、自分はそれを認めないと言っています。
自分が体験したことまで認めないということですが、私は「イワン」の言うことがわかりません、それでは肉体から切り離された理念だけを認めるということになります。
「世界を認めない」とはどういうことでしょうか。
この「認めない」ということはどういうことでしょうか。
たとえば「イワン」は、神を信じてはいるが神の創ったこの世界を認めることができないっというのだが、仮に神が別の理想的な世界を創ればそれを認めるということでしょうか、そうだとすれば、この世界は仮の誤った世界ということになります、また、この誤った世界を創ったのは神ではないと言うこともできるかもしれません。
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