2017年8月25日金曜日

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四 反逆

「お前に一つ告白しなけりゃならないことがあるんだ」

「イワン」が話しはじめました。

「俺はね、どうすれば身近な者を愛することができるのか、どうしても理解できなかったんだよ。俺の考えだと、まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけだ。いつか、どこかで《情け深いヨアン》という、さる聖人の話し(訳注 正しくはジュリアン。フローベルの書いたこの伝説が少し前に雑誌に発表された)を読んだことがあるんだが、飢えて凍えきった一人の旅人がやってきて暖めてくれと頼んだとき、聖人はその旅人と一つ寝床に寝て抱きしめ、何やら恐ろしい病気のために膿みただれて悪臭を放つその口へ息を吹きかけはじめたというんだ。しかし、その聖者は発作的な偽善の感情にかられてそんなことをやったのだ、義務的に命じられた愛情から、みずから自己に課した宗教的懲罰から、そんなことをやったんだと、俺は確信してるよ。人を愛するためには、相手が姿を隠してくれなけりゃだめだ、相手が顔を見せたとたん、愛は消えてしまうのだよ」

この「イワン」の発言「身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけだ」なのですけど、このようなことは以前に「ゾシマ長老」と「ホフラコワ夫人」の会話で聞いたことがありますね。

「ホフラコワ夫人」が自らの来世について確信できないということを「ゾシマ長老」に告白したときに、「ゾシマ長老」は身近な人たちを実際に愛することによって、「やがて隣人愛における完全な自己犠牲の境地まで到達」したら来世を信じられるようになると答えていました。

そうすると、「ホフラコワ夫人」は自分は「人類愛」がとても強いが、個々の人に対しての実行的な愛については、自信がないと言いました。

その時に「ゾシマ長老」はある医師のことを例にあげます。

その医師は「自分は人類を愛しているが、人類全体を愛するようになればなるほど、個々のひとりひとりの個人に対する愛情が薄れていく」と言います。

これは、SNSが流行っている現代にも共通するテーマです。

それは(191)に書かれています。

そして、「ホフラコワ夫人」は、「では、どうしたらよろしいのでしょう?」と「ゾシマ長老」に問いました。

そして、「ゾシマ長老」は「あなたがそれを嘆いていることで十分なのです。ご自分にできることをなさい。そうすれば報われるのです。」という答え方をしました。

この「ご自分にできることをなさい。そうすれば報われるのです。」ということは、拡大解釈をすれば、「自分でできないことはしなくとも報われる」ということになり、さらに思い切って親鸞的に解釈すれば、「自分でできないのは、自分が凡夫である証拠であって、そのような凡夫こそが救われるのが他力の本意であり、極楽浄土へ行くために手を差し伸べるのは自力の計らいである」ということになるでしょう。

つまり、ここでの「ゾシマ長老」の答え方は、含みをもたせたすぐれた内容だと思います。

この「ご自分にできることをなさい」ということで思い出されるのは、東日本大震災の時に「できることをしよう」というキャッチコピーがマスコミを通して大量に流されました。

これは、原発事故を起こりどうすることもできず多くの人が何もできなかったときなので、気の利いたコピーだと思うのですが、私には抵抗がありました。

それは「できること」の線引きを決めるのは自分であり、どんなことをしたとしても必ず自己欺瞞が生ずるのです。

「ゾシマ長老」の言う「ご自分にできることをなさい」も同じです。

判断は個々人に任されますが、これには根本的な解決はないかもしれません。

「そのことはゾシマ長老も一度ならず話しておられました」

「アリョーシャ」が口をはさみました。

「長老もやはり、人間の顔はまだ愛の経験の少ない多くの人々にとって、しばしば愛の妨げになる、と言っておられたものです。でも、やはり人類には多くの愛が、それもキリストの愛にほとんど近いような愛がありますよ。そのことは僕自身よく知っています、兄さん・・・・」

「ところが今のところ俺はまだそんなことは知らないし、理解もできないね。それに数知れぬほど多くの人たちだって俺と同じことさ。ところで問題は、人間の悪い性質からそういうことが起るのか、それとも人間の本性がそういうものだから起るのか、という点なんだ。俺に言わせると、人間に対するキリストの愛は、見方によれば、この地上では不可能な奇蹟だよ。なるほど、キリストは神だった。ところが、われわれは神じゃないんだからな。早い話、たとえば俺が深刻に苦悩することがあるとしよう、しかし俺がどの程度に苦しんでいるが、他人には決してわからないのだ。なぜならその人は他人であって、俺じゃないんだし、そのうえ、人間というやつはめったに他人を苦悩者と見なしたがらないからな(まるでそれが偉い地位ででもあるみたいにさ)。なぜ見なしたがらないのだろう、お前はどう思うね? その理由は、たとえば、俺の身体が臭いとか、ばか面をしているとか、あるいは以前にそいつの足を踏んづけたことがあるとかいうことなんだ。おまけに、苦悩にもいろいろあるから、俺の値打ちを下げるような屈辱的な苦悩、たとえば飢えなんかだったら、俺に恩を施す人もまだ認めてくれるだろうが、それより少しでも高級な苦悩、たとえば思想のための苦悩なぞになると、もうだめさ。そんなものは、ごくまれな場合を除いて認めちゃくれないんだ。それというのも、たとえば相手が俺を見て、こういう思想のために苦悩している人間は当然こういう顔をしているはずだと想像していたのとは、まるきり違う顔を俺がしていることに、ふいに気づくからなんだよ。そこで相手はすぐさま俺から恩恵を剥奪してしますわけだが、意地わるな心からじゃ決してないんだからな。乞食、それも特におちぶれ貴族の乞食は決して人前に姿を見せたりせず、新聞を通じて施しを仰ぐへきだろうね。抽象的になら、まだ身近な者を愛することはできるし、ときには遠くからでさえ愛せるものだけれど、近くにいられたんじゃほとんど絶対にだめと言っていい。もしすべてかバレエの舞台かなんぞのように行われ、乞食が絹のぼろや破れたレースをまとって登場して、優雅に踊りながら、施しを乞うのだったら、その場合はまだ見とれてもいられるさ。見とれてはいられるけど、やはり愛するわけじゃない。しかし、この話はもうたくさんだ。

まだ、「イワン」の話の途中ですが一旦ここで区切ります。

ここでの「イワン」の説明は、「ゾシマ長老」の例えたある医者の話と同じですね。


彼は「だれかが近くにきただけで、その人の個性が自分の自尊心を圧迫し、自由を束縛してしまう」と言っていましたので。


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