2017年9月10日日曜日

528

「イワン」の続きです。

・・・・計り知れぬ慈悲心からキリストは、十五世紀前に三年間、人々の間をまわってみたときと同じ人間の姿で、もう一度、人々の間を歩いてみようというわけだ。キリストは南国の都市の《炎熱の広場》へ降りたったのだが、ちょうどその広場の《壮麗な火刑場》で、つい前日に、国王はじめ、廷臣、騎士、枢機卿、美しい宮廷社交界の貴婦人たちの臨席を仰ぎ、セヴィリヤ全市のおびただしい数にのぼる住民の前で、ad majorem gloriam Dei(訳注 ラテン語。神のより大きな栄光のためにという意味。イエズス会の言葉)、ほとんどまる百人におよぶ異端者たちが、枢機卿である大審問官によって一度に焼き殺されたばかりのところなんだ。キリストは気づかれぬようにそっと姿を現したのだが、ふしぎなことに、だれもが正体を見破ってしまう。ここは叙事詩の中でもっともすぐれた場面の一つになるかもしれないな、つまり、なぜ正体を見破るかという個所がね。民衆は抑えきれぬ力でキリストの方に殺到し、取りかこみ、その人垣はどんどん大きくなっていき、彼のあとについてゆく。キリストは限りない同情の静かな微笑をうかべて、無言のまま、人々の間を通ってゆく。愛の太陽がその胸に燃え、光明と教化の力との光がその目から流れ、人々の上にふり注いで、人々の心を対応の愛で打ちふるわせる。キリストが手をさしのべ、祝福を与えると、彼の身体に、いや、その衣服にさわるだけで、治癒の力が生ずるのだ。と、群衆の中から、子供のころ盲になった一人の老人が叫ぶ。『主よ、わたしを癒してください、そうすればわたしもあなたさまのお姿を拝めますから』すると、まるでその目からうろこでも剝げ落ちるかのように、盲人にはキリストの姿が見えるようになる。民衆は感泣し、キリストの歩いた大地に接吻する。子供たちは彼の前に花を投げ、歌をうたい、『ホサナ!』(訳注 神やキリストを讃える言葉)と叫ぶ。『あのお方だ、まさしくあのお方だぞ』みんなが口々にくりかえす。『あのお方にちがいない、あのお方にきまっているとも』キリストはセヴィリヤ大寺院に入口に立ちどまる。と、まさにそのとき、蓋をせぬ子供用の白い柩が、泣き声とともに寺院に運びこまれてくる。柩にはさる偉い人の一人娘である七歳の少女が納められているのだ。子供の遺体は花に埋もれて横たわっている。『あのお方がお子さんを生き返らせてくださるよ』泣いている母親に群衆の中から声がかかる。柩を迎えに出てきた大寺院の神父は、けげんな面持ちで見つめ、眉をひそめる。だが、このとき、死んだ子供の母親の泣き声がひびき渡る。母親はキリストの足もとに身を投げ、『もし、イエス様でしたら、わたくしの子供を生き返らせてくださいませ!』と、両手をさしのべながら、叫ぶ。葬列は立ちどまり、柩が寺院の入口でキリストの足もとに置かれる。キリストは同情の目で眺めやり、その口が低い声でふたたび、『タリタ、クミ』(起きよ、娘)とつぶやいた。そして『少女は起きあがった』(訳注 マタイによる福音書第九章)のだ。少女は柩の中で身を起し、坐ると、微笑を浮かべながら、大きく見はったふしぎそうな目であたりを見まわす。その手には、柩にいっしょに納められていた白いバラの花束を抱えている。群衆の間に動揺と、どよめきと、嗚咽が起った。・・・・

ここで、一旦区切ります。

スペインの異端審問につきましては、(527)でも少し書きましたが、興味深いので、「スペインの異端審問」として項目立てされているウィキペディアの説明をそのままコピーします。

「スペイン異端審問(スペインいたんしんもん)は15世紀以降、スペイン王の監督の下にスペイン国内で行われた異端審問のこと。宗教的な理由というよりも政治的な思惑が設置に大きく関わっている。15世紀末にフェルナンド2世が、コンベルソ(カトリック改宗したユダヤ教徒)に起因する民衆暴動を抑え、多民族であるスペインのカトリック的統一を目的にローマ教皇に特別な許可を願って設置された。王権制約的であったアラゴン諸王国に対する王権行使の機関、中央集権機関としての側面もある。設立当初の審問の対象者は主にコンベルソとモリスコ(カトリックに改宗したイスラム教徒)であった。」
「時代背景:13世紀の「大レコンキスタ」以降、イベリア半島の大部分がイスラム教国家からキリスト教国家の領土となったが、依然グラナダなど南部を中心に多くのイスラム教徒たちが暮らしていた。カスティーリャ王国では、信仰の自由と自治権を保障されたアルハマ(ユダヤ人共同体)があり、セビリャ、ムルシア地方にも多数のムデハル(キリスト教国支配下のイスラム教徒)が存在した。またアラゴン王国でも、バレンシアなどに多くのムデハルが暮らしており、バルセロナなどに多くのユダヤ教徒がいた。この頃は非キリスト教徒に対しても寛容な時代であった。14世紀の半ば頃から、ペストの流行や経済的問題などにより、比較的富裕層が多かったユダヤ教徒に不満が集まった。1391年のセビリャで大規模なポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こると、それは各都市に飛び火した。これによって多くのユダヤ教徒が虐殺され、改宗を強いられた。けれどもユダヤ人への不信感は払拭されず、度々反ユダヤ暴動が起こった。またアラゴン王国では他のヨーロッパ諸国と同様に教皇庁の任命した異端審問官が巡回する異端審問が行われていたが、それほど大掛かりには行われなかった。またアラゴン王国の宮廷では多くのユダヤ人が仕えていた。フェルナンドとイサベル1世の結婚を斡旋したのもペドロ・デ・ラ・カバレリャというユダヤ人家臣であった。」
「スペイン異端審問の開始:カスティーリャ王国のイザベルとアラゴン王国のフェルナンド2世の結婚(1469年)レコンキスタの完了(1492年)により、スペインに待望の統一王権が誕生した。フェルナンド2世にとって国内の一致のためにも、表面上はキリスト教に改宗しながら実際には自分たちの信仰を守っていたモリスコ、コンベルソの存在が邪魔なものになっていた。フェルナンド2世は異端審問のシステムを用いれば、これらの人々を排斥し、政敵を打ち倒すことができると考えた。さらにフェルナンドはユダヤ人金融業者から多額の債務を負っていたため、もし金融業者たちを異端審問によって社会的に抹殺できれば債務が帳消しになるという思惑もあった。フェルナンドはローマ教皇と親交を深めることで自らの王権を強化しようと考えていたが、同時に教皇の影響力を自国からできる限り排除したいとも思っていた。異端審問はすべて教皇の管轄下で行われるため、もしフェルナンドがスペイン国内で異端審問を行っても自分の思い通りにはできず、教皇庁の介入を許すことになる。フェルナンドは異端審問を自らの政治目的に沿って利用するためにも、教皇の監督行為を排除した異端審問を行いたいと考えていた。そこでスペインにおいて王の監督のもとに独自に異端審問を行う許可を教皇シクストゥス4世に願った。教皇は当然、世俗権力によって異端審問が政治的に利用されることの危険性を察知し、なかなか首を縦に振ろうとしなかった。そこでフェルナンドはさまざまな方策を用いて、この許可を得ようとした。ここで活躍したのがスペイン人枢機卿ロドリゴ・ボルハであった。彼の奔走の甲斐もあって、1478年に教皇はしぶしぶながらカスティーリャ地方以外においてのみ独自の異端審問を行うことを許可した。(これによってボルハ枢機卿は後年のコンクラーヴェでスペイン王の強力な後押しを受けることができた。彼こそが堕落した中世教皇の筆頭にあげられるアレクサンデル6世である。)こうしてユダヤ教徒とイスラム教徒に狙いを定めたフェルナンドとイザベルによって異端審問所の長官に任命されたのがトマス・デ・トルケマダである。そもそも「異端」審問というものは、「キリスト教徒でありながら、正しい信仰を持っていないもの」を裁くためのものであり、ユダヤ教徒やイスラム教徒をその信仰ゆえに裁く権利はなかった。しかし初期のスペイン異端審問所は、一旦改宗しながらユダヤ教、イスラム教の習慣を守るコンベルソ、モリスコを多く裁いた。
シクストゥス4世はセビリアから始められたスペイン異端審問がユダヤ人に的をしぼって行われていることに見かねて抗議したが、フェルナンド王が自らの支配下にあるシチリア王国の兵力による教皇庁への支援打ち切りをほのめかして恫喝したため、引き下がらざるを得なかった。教皇としてフェルナンド王の行きすぎた行動や見境のない処罰がキリスト教と異端審問の名を借りて行われていることを看過できず、スペイン異端審問を「ユダヤ人の財産狙いの行為である」と断言している。「もっともカトリック的な王」という称号とは裏腹にフェルナンドは教皇を徹底的に利用し、教皇に対しては従順を装いながらも強圧的に臨んでいた。教皇がフェルナンドの要求を断れなかった背景には当時の地中海情勢がある。勢い盛んだったオスマン帝国がギリシアを支配下においてイタリア本土を脅かし始めたのだ。教皇領とイタリア半島の安全はシシリア王国の軍事力によって保障されていた。シシリア王国の主でもあるフェルナンドはこれを対教皇折衝の切り札としていたのである。教皇はフェルナンドの要求を飲まざるを得ない状況に追い込まれた。こうしてスペイン異端審問に教皇の正式なお墨付きを得たフェルナンドは、教皇の干渉なしに自由に異端審問を利用できるようになった。」
「スペイン異端審問の変遷:1484年に死去したシクストゥス4世の後を継いだインノケンティウス8世は2度にわたって回勅を発布し、スペインにおける異端審問の行き過ぎを批判し、被疑者への寛大な措置を願っている。そもそも異端審問のシステムにおいては裁くのは教会関係者であっても、処罰を行うのは世俗の権力であるのが通例であった。拷問は自白を引き出すために用いられ、被疑者が自白すると刑罰が執行された。刑罰も一律ではなく、人前で異端であることを示す服を着せられて見世物にされる程度の軽い刑から火刑による処刑までさまざまであった。異端審問を受けた被告の処罰はしばしば都市の広場で行われた。異端判決宣告式(アウト・デ・フェ)そしてそれに続く火刑は、公権力の存在を人々に知らしめるものであった。異端審問は告発者が秘密であることが特色であったため、しばしば異端と関係ない無実の人々が恨みなどから、あるいは王室から与えられる報奨金目当てに訴えられることも多かった。裕福なフダイサンテ(スペイン語版)(隠れユダヤ教徒)の告発は王室自身が行っていたであろうことは裁判後に資産が王室に没収されたことからうかがえる。宗教改革の時代に入ると、異端審問所はその照準をフダイサンテから「古くからのキリスト教徒」へ移す。彼らの宗教生活を監視し、少数ではあったがプロテスタントや照明派に対しても審問が行われ、スペイン反宗教改革の中心的役割を負った。またスペインにおいては魔女は異端審問ではほとんど扱われず、訴えがあった場合でも精神異常者ということで釈放されることが多かった。17世紀に入ると、審理件数は減少の一途をたどり、18世紀になるとほとんど機能しなくなる。スペインにおける異端審問が正式に廃止されたのはナポレオン・ボナパルトの支配を受けた1808年である。ナポレオンの元でスペイン王となったジョゼフ・ボナパルトは、異端審問の廃止を決定したが、その決定には反発も根強く、その後いったん復活するが、もはや実効性はなく、1834年摂政マリア・クリスティーナのもと、完全に廃止となった。スペイン異端審問の正確な被害者数を知ることは難しいが、ある研究者はトマス・デ・トルケマダの15年の在職期間中に2000人ほどのユダヤ人が火刑になったと考えている。イスラム教徒やイスラムからの改宗者の犠牲者はそれよりずっと少なかったと考えられている。最新の研究によれば、スペイン異端審問において12万5千人近くが裁判を受けたが、実際に死刑を宣告されたのはそのうち1200人~2000人程度で、ほとんどの被告は警告を受けるか、無罪が証明されて釈放されたとされている。どうやらスペイン異端審問には(スペインを批判するために用いられた)「黒い伝説」の一部として、誇張され過大に語られてきた部分もあると見られる。」

正確かどうかはわかりませんが以上が、「スペインの異端審問」についての記述です。

また、「ad majorem gloriam Dei」とラテン語のまま書かれています。

これもウィキペディアに出ていましたが、翻訳機能を使いましたので意味がよくわからないですね。

「Ad maiorem Dei gloriamまたはad majorem Dei gloriam [注1]は省略語 AMDGとも呼ばれ、 カトリック教会の宗教的秩序であるイエズス教会のラテン語の モットーです。 それは、「神の栄光がより大きくなる」という意味です。」また、「このフレーズの由来は、イエズス会の創始者であるロヨラの聖イグナティウス ( Saint Ignatius)が、社会の宗教的哲学の基調講演となることを意図したことによるものです。 聖イグナチオに帰された完全な言葉は、「神の栄光と人類の救いのために」、 悪ではない作品、たとえ霊的な生命にとって重要でないと考えられる作品さえあれば、それが神に栄光を与えるために行われるならば、霊的に功績を上げることができるという考えの要約です。」

「イワン」はキリストがそっと姿を現したのを民衆が見破るところを「ここは叙事詩の中でもっともすぐれた場面の一つになるかもしれないな」と自画自賛していますが、この部分が一番絵画的でもありますね。

ここでは、キリストは盲目の老人の目を見えるようにし、死んだ少女を生き返らせています。

子供たちが叫んだ「ホサナ」という言葉は以下のように説明されています。

「ホサナ(ラテン語: osanna, hosanna、英語: hosanna /hoʊˈzænə/)は、ヘブライ語で「どうか、救ってください」を意味する ホーシーアー・ナー(hoshia na)の短縮形 ホーシャ・ナー(hosha na)のギリシャ語音写に由来し、キリスト教において元来の意味が失われて歓呼の叫び、または神を称讃する言葉となった。アーメン、ハレルヤ(アレルヤ)などと共に、キリスト教の公的礼拝で使用されるヘブライ語の一つとなっている。なお、ホーシーアー・ナー の語意について、一部の英語文献ではそれを "save, now" としているが、これはヘブライ語の na が懇願を表す副詞であるとともに時間の副詞としても用いられることによる。ラテン語では「オザンナ」もしくは「オサンナ」と発音する。日本のカトリック教会では公的礼拝において「ホザンナ」を、日本正教会では「オサンナ」を使用している。」

「マタイによる福音書」の第九章は以下のとおりです。


「さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、家に帰って行った。群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。これらのことを彼らに話しておられると、そこにひとりの会堂司がきて、イエスを拝して言った、「わたしの娘がただ今死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう」。そこで、イエスが立って彼について行かれると、弟子たちも一緒に行った。するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。それからイエスは司の家に着き、笛吹きどもや騒いでいる群衆を見て言われた。「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った。しかし、群衆を外へ出したのち、イエスは内へはいって、少女の手をお取りになると、少女は起きあがった。そして、そのうわさがこの地方全体にひろまった。そこから進んで行かれると、ふたりの盲人が、「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と叫びながら、イエスについてきた。そしてイエスが家にはいられると、盲人たちがみもとにきたので、彼らに「わたしにそれができると信じるか」と言われた。彼らは言った、「主よ、信じます」。そこで、イエスは彼らの目にさわって言われた、「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」。すると彼らの目が開かれた。イエスは彼らをきびしく戒めて言われた、「だれにも知れないように気をつけなさい」。しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言いひろめた。彼らが出て行くと、人々は悪霊につかれたおしをイエスのところに連れてきた。すると、悪霊は追い出されて、おしが物を言うようになった。群衆は驚いて、「このようなことがイスラエルの中で見られたことは、これまで一度もなかった」と言った。しかし、パリサイ人たちは言った、「彼は、悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」。イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。」


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