2017年9月9日土曜日

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「イワン」の会話の続きです。

・・・・北国ドイツに恐るべき異端が現れた(訳注 宗教改革のこと)のは、ちょうどこのころだよ。《たいまつに似た》(つまり、教会に似た)巨大な星が《水源の上に落ち、水が苦くなった(訳注 ヨハネ黙示録第八章)》のだ。この異教は冒瀆的に奇蹟を否定しはじめた。だが、依然として信仰を持ちつづけた人々は、そのことによっていっそう熱烈に信ずるようになった。人類の涙はそれまでと同じようにキリストのもとにのぼってゆき、キリストを待ち望み、愛し、期待をかけ、以前と同じようにキリストのために苦しんで死ぬことを渇望していた・・・・こうして何世紀もの間、人類は信仰と熱情とをこめて『主なる神よ、われらの前に姿を現わしたまえ』と祈りつづけ、何世紀もの間うったえつづけてきたので、キリストもその無限の同情心にかられて、祈っている人々のところへ下りてくる気持になったんだ。それ以前にもキリストが下りてきて、戒律をきびしく守る行者や、殉教者や、まだ地上にいた隠遁の聖者を訪れたことがあるのは、その人たちの《伝記》にあるとおりさ。わが国では、自己の言葉の正しさを深く信じきっていた詩人のチュッチェフが、こんなふうにうたっている。

十字架の重荷に苦しみながら、
奴隷に身をやつした天上の主は、
母なる大地よ、お前の隅々まで
祝福を与えてまわれれた。(訳注 『この貧しき村々よ』の一節)

きっとそのとおりだったにちがいない。さて、キリストはほんの一瞬でも民衆の前に姿を現わそうという気持になられた・・・・苦しみ、悩み、罪に汚れてはいても、赤児のように主を愛している民衆の前にね。俺の場合、舞台はスペインのセヴィリヤ、時はあたかも、神の栄光のために国じゅうで毎日のように焚火が燃えさかり、

壮麗な火刑場で
こころあしき異教の徒を焼きつくす

という異端審問のもっとも恐ろしい時代だ。いや、もちろんこれは、キリストが自分の約束に従ってこの世の終りに天の栄光に包まれながら、『ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように』(訳注 マタイによる福音書第二十四章)、突然、姿を現わすという、あの降臨じゃない。そうじゃないんだ、キリストはほんの一瞬でもいいから自分の子供らを訪ねよう、それもまさに異端者を焼く焚火がぱちぱち爆ぜているその場所を訪ねよう、という気になったんだよ。・・・・

ここで「イワン」の会話を切ります。

これから私にはあまり馴染みのない宗教関係のことがたくさん出てくると思います。

それらをウィキペディア中心に、ネットで調べていきたいと思います。

まず「宗教改革」とは、ウィキペディアによると「16世紀(中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。贖宥状に対するルターの批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、ローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展した。ルターによるルター教会、チューリッヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会、ヘンリー8世によって始まったイギリス国教会などが成立した。また、当時はその他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も力を持っていた。」

「ヨハネ黙示録」の第八章は「小羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった雹と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。また、わたしが見ていると、一羽のわしが中空を飛び、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。」です。

チュッチェフについては「フョードル・イヴァーノヴィチ・チュッチェフ(1803年12月5日~1873年7月27日)とは、ロシアの詩人、外交官である。「頭でロシアは分からない」という言葉で知られる。ミュンヘン、トリノに暮らし、ハイネやシェリングと親交があった。文壇には加わらず、自らを文学者と呼ぶことはなかった。およそ400編の詩が残されており、その詩句はロシアできわめて頻繁に引用される。」とのことです。

そして、『この貧しき村々よ』は『これら貧しき村々... 』として次のような訳が掲載されていました。

『これら貧しき村々... 』(1855)、全 3 連 12 行中の第 2 連 3~4 行目。

これら貧しき村々、
この貧相な自然――お前こそは
辛酸を耐えに耐えてきた祖国だ、
ロシアの民の祖国なのだ!
異国の尊大な目には、
決して分かるまい、気がつくまい、
お前の従順な裸身を貫き、
密やかに輝くものの何たるかを。
十字架の重荷を背負い、 奴隷に身をやつした天帝は、
祖国の大地よ、お前を祝福しつつ、 
お前を隈なく歩き回ったのだ。
 (1855 年 8 月 13 日)

そして「異端審問」とは以下のように書かれていました。

「異端審問(いたんしんもん)とは、中世以降のカトリック教会において正統信仰に反する教えを持つ(異端である)という疑いを受けた者を裁判するために設けられたシステム。異端審問を行う施設を「異端審問所」と呼ぶ。ひとくちに異端審問といっても中世初期の異端審問、スペイン異端審問、ローマの異端審問の三つに分けることができ、それぞれが異なった時代背景と性格を持っている。」

ここで「イワン」は「俺の場合、舞台はスペインのセヴィリヤ」と言っていますので、スペインの異端審問についてはこう書かれていました。

「異端審問の歴史の中で特筆されるスペイン異端審問は中世の異端審問とはまた異なる性格を持つものである。15世紀の終わりになって、アラゴンのフェルナンド2世とカスティーリャのイサベル1世の結婚に伴ってスペインに連合王国が成立した。当時のスペインにはキリスト教に改宗したイスラム教徒(モリスコ)やユダヤ教徒(マラノ)たちが多くいたため、国内の統一と安定において、このような人々が不安材料になると考えた王は、教皇に対してスペイン国内での独自の異端審問機関の設置の許可を願った。これは教皇のコントロールを離れた独自の異端審問であり、異端審問が政治的に利用されることの危険性を察知した教皇は許可をためらったが、フェルナンド王は政治的恫喝によってこの許可をとりつけることに成功した。結果としてスペイン異端審問は多くの処刑者を生んだことで、異端審問の負のイメージを決定付け、キリスト教の歴史に暗い影を落とすことになった。」と。


「マタイによる福音書」の第二十四章は(526)で引用しました。



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