2017年9月8日金曜日

526

「イワン」の会話の続きです。

・・・・ところで俺の叙事詩も、もしそのころ世に出ていたら、同じ性質のものになっただろうね。俺の詩にはキリストが登場するんだ。もっとも、詩の中では何一つしゃべらず、ただ姿を現して通りすぎるだけだがね。キリストが自分の王国をふたたび訪れると約束してから、すでに十五世紀すぎた。彼の予言者が『わたしはすぐに訪れるたろう』(訳注 ヨハネ黙示録第二十二章)と書き記してから、もう十五世紀にもなるんだ。キリスト自身もまだ地上にいるときに、『その日、その時は子も知らない。ただ父だけが知っておられる』(訳注 マタイによる福音書第二十四章)と語っているけれどね。しかし、人類は以前と変らぬ信仰、前と同じ感動をいだいて、キリストを待ちつづけているんだ。いや、信仰はむしろ強まったほどだよ。なぜなら、天より人間に与えられた保証がとだえてから、すでに十五世紀過ぎたんだからね。

心の告げることを信ぜよ、
天よりの保証はすでになし。(訳注 シラーの詩『願望』より)

だから、心の告げたことに対する信頼しかなかったってわけだ! なるほど、当時たくさんの奇蹟もあったさ。奇蹟的な治療を行う聖者もいたし、戒律をきびしく守っていた人々の中には、伝記によると、聖母みずからの訪れに接した人たちもいたくらいだ。しかし悪魔も居眠りをしちゃいないから、人類の間にはすでにそうした奇蹟の真実性に対する疑惑が起りはじめていた。・・・・

ここで、「イワン」の会話を切ります。

いつのまにか、もう「イワン」の叙事詩に入っているのですね。

一部だけ抜き書きしてもわかりませんが、ヨハネ黙示録第二十二章」は以下のとおりです。

「御使(みつかい)はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座(みざ)から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕(しもべ)たちは彼を礼拝し、御顔(みかお)を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名(みな)がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。わたしが見聞きした時、それらのことを示してくれた御使(みつかい)の足もとにひれ伏して拝そうとすると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ僕仲間(しもべなかま)である。ただ神だけを拝しなさい」。またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。犬ども、まじないをする者、姦淫(かんいん)を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。御霊(みたま)も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにこれを受けるがよい。この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。」

次に「マタイによる福音書第二十四章」です。

「イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子(でし)たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国(みくに)の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣(の)べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。見よ、あなたがたに前もって言っておく。だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。死体のあるところには、はげたかが集まるものである。しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使(みつかい)たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。いちじくの木からこの譬(たとえ)を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天の御使(みつかい)たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水(こうずい)の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。主人がその家の僕(しもべ)たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」


シラーの詩『願望』は、調べましたが見つけることができませんでした。


0 件のコメント:

コメントを投稿