2017年9月7日木曜日

525

「イワン」の会話の続きです。

・・・・ヴィクトル・ユーゴーの『ノートル・ダム・ド・パリ』という作品に、ルイ十一世の御代にパリで、フランス皇太子の誕生を祝って、市政庁のホールで民衆のために『いと神聖なやさしき聖母マリヤの慈悲深き裁判』という無料の教訓劇を催すところがあるけど、それには聖母ご自身が登場して、慈悲深い裁判を行うしさ。わが国でもピョートル大帝以前の昔、モスクワで、ほとんど同じような、特に旧約聖書から題材をとった芝居が、やはりときおり演じられていたんだ。しかし、芝居以外にも、当時は世界中に、必要に応じて聖者や天使や、天上のすべての力が登場してくる物語とか《詩》とかが、おびただしく氾濫していたもんさ。わが国の修道院でも、こういう詩の翻訳や筆写、さらには創作さえやっていたし、しかもそれがタタール人の支配下(訳注 十三世紀半ばから十五世紀末まで)でなんだからな。たとえば、さる修道院の詩(と言っても、もちろんギリシャ語からの翻訳だけれど)に『聖母マリヤの苦悩の遍歴』というのがあるが、これなぞはダンテにも劣らぬ光景と大胆さにあふれたものだよ。聖母が地獄を訪れ、大天使ミハイルの案内で《苦悩》を見てまわる。さまざまな罪びとやその苦しみを見るのだが、その中に、火の池に落ちたきわめて注目すべき範疇の罪びとがいるのだ。彼らのうちにはその池に深く沈んで、二度ともう浮かびあがれぬような連中もいて、『神もすでに彼らを忘れたもう』-実に深みのある力強い表現だろう。ところで、はげしく心を打たれた聖母は、泣きながら神の御座の前にひれ伏して、地獄に堕ちたすべての者に、自分が地獄で見たすべての者に、分けへだてなく、恵みを乞う。この聖母と神との対話がたいそう興味深いんだ。聖母は懇願し、立ち去ろうとしない。そして神が、聖母の息子(訳注 キリストのこと)の釘付けにされた手足をさし示して、あの子の迫害者たちをどうして赦せるだろうとたずねられたとき、聖母はすべての聖者や、殉教者、天使、大天使たちに、自分といっしょにひれ伏して、分けへだてなくすべての者に恵みを乞うように命ずるのだ。こうして結局、聖母の願いは神にきき入れられ、毎年、神聖金曜日から精霊降臨祭まで、地獄の責苦は休止されることになるのだが、ここで地獄の罪びとたちは神に感謝して、『主よ、こう裁きたもうたあなたは正しい』と叫ぶんだよ。・・・・

ここで「イワン」の話を区切ります。

まず、この物語と直接関係はありませんが、ヴィクトル・ユーゴーの『ノートル・ダム・ド・パリ』について調べました。

「『ノートルダム・ド・パリ』(Notre-Dame de Paris)は、ヴィクトル・ユーゴーの小説。『ノートルダムのせむし男』の邦題でも知られている。出版は1831年。あらすじは、舞台は荒んだ15世紀(1482年)のパリ。教会の持つ権限が、弾圧と排除を生み出す時代の物語。ノートルダム大聖堂の前に、一人の醜い赤ん坊が捨てられていた。彼は大聖堂の助祭長、フロロ(Frollo)に拾われ、カジモド(Quasimodo)という名をもらう。彼は成長し、ノートルダムの鐘つきとなる。パリにやって来た美しいジプシーの踊り子エスメラルダ(Esmeralda)に、聖職者であるフロロは心を奪われる。欲情に悩み、ついにはカジモドを使ってエスメラルダを誘拐しようとする。しかしカジモドは捕らえられ、エスメラルダは衛兵フェビュス(Phoebus)に恋するようになる。フェビュスとエスメラルダの仲は深まるが、実はフェビュスは婚約者がいる不実な男だった。捕らえられたカジモドは広場でさらし者になるが、ただ一人エスメラルダだけは彼をかばう。カジモドは人間の優しさを生まれて初めて知り、彼女に恋をする。フロロも彼女に想いを募らせるが、エスメラルダの心はフェビュスにある。フロロは逢引をするふたりをつけて行き、フェビュスを刺して逃げる。エスメラルダはフェビュス殺害未遂の濡れ衣を着せられ、魔女裁判の元に死刑が言い渡される。カジモドはエスメラルダを救いノートルダム大聖堂にかくまう。しかし、エスメラルダはカジモドのあまりの醜さにまともに顔を見ることすらできなかった。フロロはパリの暴動の矛先をノートルダム大聖堂に向けさせ、混乱の中エスメラルダを連れ出し、助命と引き換えに愛人になるよう迫るが、彼女はフェビュスを刺したフロロを拒んだ。フロロは彼女を衛兵に引き渡し、エスメラルダは兵士達に捕まり、処刑される。大聖堂の塔の上からそれを見届けるフロロを、カジモドは塔から突き落として殺す。数年後、処刑場を掘り起こすと、白い服装をしていた女性エスメラルダと思われる白骨に、異様な骨格の男の白骨が寄り添っており、それらを引き離そうとすると、砕けて粉になってしまった。」

ところが、以下のような文章をネットで見つけましたので、一部分を引用しておきます。

「・・・・イワンが引用、言及する作品の原典に当たり、背景となっている歴史、宗教的事象を調べると、驚くべきことに、彼の知識や認識には重大な誤謬があることがわかる。一例をあげよう。「大審問官」の冒頭部で、イワンは前置きが必要だと言って、ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』の一挿話に言及する。当該原文はこうである――「ヴィクトル・ユゴーの «Notre Dame de Paris» には、ルイ十一世の治世に、フランス皇太子の生誕を祝って、パリ市役所の大広間で «Le bon jugement de la très sainte et gracieuse vierge Marie» と題する教訓劇が民衆向けに無料で上演される場面があるがね、そこには聖母自身が舞台に登場して、«bon jugement» をおこなうんだよ」。ユゴーを一読すればわかるが、このわずか4行たらずの文に5か所の錯誤を指摘できる(下線部)。そもそも『ノートル=ダム』冒頭のこのエピソード自体が公現祭の「愚者の祭り」を背景とする、騒々しくも下世話なカーニヴァル的なものであって、イワンが自らの存在と思想のすべてをかけて語る深刻きわまりない物語詩の前置きにはふさわしくないと言わなければならない。これは作者の単なる「不注意」だろうか(グロスマン、江川卓はそう考える)。だが、ドストエフスキーがユゴーを長年愛読し、『ノートル=ダム・ド・パリ』を「天才的な力強い作品」と高く評価し、しかもそのロシア語訳が『ヴレーミャ』1862年9号に掲載されたことを考慮するならば、「不注意」説はとうてい首肯できるものではない。こうは考えられないだろうか――作者はユゴーの作品に通暁しているが、イワンは知らない、彼はおそらく『ノートル=ダム』を読んでいないのだ。そして「大審問官」での錯誤がこの一件にとどまらず、イワンの知識の不備、欠落、混乱が歴史、宗教、
文化の諸事象に及ぶ以上、これはドストエフスキーの確信犯的な作為と見なすほかないのではないか。作家がこの24歳の青年を、イロニーをこめて、「学者」と呼んだことを忘れてはならない。・・・・」とのことですが、おもしろいですね。


「ルイ11世(Louis XI, 1423年7月3日 - 1483年8月30日)は、フランス・ヴァロワ朝の王(在位:1461年 - 1483年)。慎重王(le Prudent)と呼ばれる。」とのこと。

ピョートル1世については「(ロシア語: Пётр I Алексеевич;ラテン文字表記の例: Pyotr I Alekseevich, 1672年6月9日(ユリウス暦5月30日) - 1725年2月8日(ユリウス暦1月28日))は、モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682年 - 1725年)、初代ロシア皇帝(インペラートル / 在位:1721年 - 1725年)。大北方戦争での勝利により、ピョートル大帝(ピョートル・ヴェリーキイ / Пётр Вели́кий)と称される。ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの六男、母はナタリヤ・ナルイシキナ。ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、スウェーデンからバルト海海域世界の覇権を奪取してバルト海交易ルートを確保。また黒海海域をロシアの影響下におくことを目標とした。これらを達成するために治世の半ばを大北方戦争に費やし、戦争遂行を容易にするため行政改革、海軍創設を断行。さらに貴族に国家奉仕の義務を負わせ、正教会を国家の管理下におき、帝国における全勢力を皇帝のもとに一元化した。また歴代ツァーリが進めてきた西欧化改革を強力に推進し、外国人を多く徴用して、国家体制の効率化に努めた。1721年11月2日には大北方戦争の勝利を記念し、元老院にインペラートルの称号を贈らせ、国家名称をロシア帝国に昇格させた。ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく、「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評される。なお、ピョートルの存命時のロシアはグレゴリオ暦を採用しておらず、文中の日付はユリウス暦である。」とのこと。

聖母マリアについて「(せいぼマリア、ヘブライ語: מִרְיָם‎, Miryām, アラム語: ܡܪܝܡ‎, Maryām, ギリシア語: Μαρία, María)は、イエス・キリスト(ナザレのイエス)の母、ナザレのヨセフの妻。ヨアキムとアンナの娘とされている。「聖母(せいぼ)」はカトリック教会、聖公会で最も一般的な称号である。おとめマリア、処女マリア、神の母マリアとも。正教会の一員である日本ハリストス正教会では生神女マリヤ(しょうしんじょマリヤ)の表現が多用される。」とのこと。

ミカエルについて「(ヘブライ語:מִיכָאֵל [Mîā’ēl])は、旧約聖書の『ダニエル書』、新約聖書の『ユダの手紙』『ヨハネの黙示録』、旧約聖書外典『エノク書』などに名があらわれる天使。日本正教会では教会スラヴ語・ロシア語からミハイルと表記される。キリスト教ではミカエルが死の天使として人間の魂を秤に掛けるという。」とのこと。


なお、『聖母マリヤの苦悩の遍歴』は既に 14世紀にはロ シアの民衆の聞に流布していたとのことがどこかに書かれていました。


0 件のコメント:

コメントを投稿