2017年9月12日火曜日

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「イワン」の発言の続きです。
・・・・大審問官は入口で立ちどまり、一分か二分じっとキリストの顔を見つめる。やがて静かに歩みより、燈明をテーブルの上に置くと、キリストに言う。『お前はキリストなのか? キリストだろう?』だが、返事が得られぬため、急いで付け加える。『答えなくてもよい、黙っておれ。それにお前がいったい何を言えるというのだ? お前の言うことくらい、わかりすぎるほどわかっておるわ。そのうえお前には、もう昔言ったことに何一つ付け加える権利はないのだ。なぜわれわれの邪魔をしにきた? なにしろお前はわれわれの邪魔をしにきたんだし、自分でもそれは承知しとるはずだ。しかし、明日どうなるか、わかっているのか? お前がいったい何者か、わしは知らんし、知りたくもない。お前がキリストなのか、それともその同類にすぎないのか、わしは知らないが、とにかく明日になったらお前を裁きにかけて、異端のもっとも悪質なものとして火あぶりにしてやる。そうなれば今日お前の足に接吻した同じあの民衆が、明日はわしの合図一つでお前を焼く焚火に炭を放りこみに走るのだ、お前にはそれがわかっているのか? そう、おそらくお前はそれを承知しとるんだろうな』大審問官は囚人から一瞬も視線をそらさず、思い入れたっぷりな瞑想にふけりながら言い添えた」

大審問官は相手がキリストだとわかっていますね。

そして、民衆が簡単に裏切ることも。

大審問官は臆せずにキリスト対抗していますが、これは不自然なことのように思いますが叙事詩だからでしょう。

何はともあれ、キリストは神なのですから別格だと思いますが、大審問官は自分と同格とでも思っているのでしょうか、そんなわけはないと思いますが、彼の本心はどうなのでしょうか、もしキリストだと確定されれば、彼の存在自体が抹殺されるでしょうから。

大審問官としての個人の権力意識が極限まで昂揚し、神の位にまでなってしまっているようです。

もし、そうだとしたらそれもすごいことです。

「あまりよくわからないけど、それはいったい何のことです? 兄さん?」

それまでずっと黙ってきいていた「アリョーシャ」が微笑して言いました。

「ただの雄大な幻想ですか、それとも老人の何かの誤解か、およそありえないような qui pro quo(人違い)ですか?」

「なんなら後者と受けとってもいいんだぜ」

「イワン」は笑いました。

「もしお前が現代のリアリズムにすっかり甘やかされた結果、何一つ幻想的なものは受けつけず、あくまでも qui pro quoであってほしいというんなら、それでもかまわんさ。たしかにそのとおりだよ」

彼はまた大笑いしました。

「なにしろ老人は九十なんだから、とうの昔に自己の思想で気がふれかねなったんだしな。それに囚人がその外貌で彼をびっくりさせたかもしらんしさ。結局のところ、こんなのは、死を目前に控え、しかも百人もの異端を焼き殺した昨日の火刑でまだ興奮のさめやらぬ、九十歳の老人のうわごとか幻覚にすぎないかもしれないんだよ。しかし、俺たちにとっては、qui pro quoだろうと、雄大な幻想だろうと、どうせ同じことじゃないかね? 要するに問題は老人が自分の考えを存分に述べる必要があるという点なんだし、そしてついに九十年の分をひと思いに述べ、九十年も黙っていたことを声にだして話しているという点だけにあるんだからな」


「イワン」は大審問官の言う言葉が必要なことであって、つまり大審問官の頭の中の沈黙していた言葉を表に引き出させることが、この叙事詩の役割であって、そのほかの装置的なことは不自然であってもその不自然さは不自然さにおいては関係ないということですね。


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