「じゃ、囚人も沈黙しているんですか? 相手をみつめたまま、一言も言わないんすか?」
「それはどんな場合にもそうでなけりゃいけないよ」
「イワン」がまた笑いだしました。
「老人自身が指摘しているとおり、キリストは昔すでに言ったことに何一つ付け加える権利はないんだからね。なんだったら、まさしくこの点にこそローマ・カトリック教の根本的な特徴があると言ってもいいんだ。少なくとも俺の考えではね。つまり、『お前はすべてを教皇に委ねた。したがって今やすべては教皇の手中にあるのだから、いまさらお前なんぞ来てくれなくてもいいんだ。少なくとも、しかるべき時まで邪魔しないでくれ』というわけだ。こういう意味のことを彼らは言っているばかりか、ちゃんと書いてもいるんだ、少なくともイエズス会の連中はな。俺自身、この派の神学者の本でよんだことがあるもの。ところで、『お前が今やってきた、向うの世界の秘密をたとえ一つなりとわれわれに告げる権利が、お前にはあるだろうか?』と老審問官はたずね、キリストに代って自分で答える。『いや、あるものか。それというのも、昔すでに語ったことに付け加えぬためだし、この地上にいたころお前があれほど擁護した自由を人々から取りあげぬためなのだ。お前が新たに告げることはすべて、人々の信仰の自由をそこなうことになるだろう。なぜなら、そのお告げは奇蹟として現われるからだ。お前にとっての人々の信仰の自由とは、すでに千五百年も前のあの当時から、何よりも大切だったはずではないか。あのころしきりに《あなた方を自由にしてあげたい》と言っていたのは、お前ではなかったろうか。ところがお前は今その《自由な》人々を見たのだ』ふいに老審問官は考え深げな笑いをうかべて、いい添える。『そう、この仕事はわれわれにとって、ずいぶん高いものについた』きびしくキリストを見つめながら、彼はつづける。『しかし、われわれはお前のためにこの仕事を最後までやってのけたのだ。十五世紀の間、われわれはこの自由というやつを相手に苦しんできたけれど、今やそれも終った。しっかりと完成したのだ。しっかりと完成したのが、お前には信じられないかね? お前は柔和にわしを見つめるばかりで、憤りさえ表わしてくれないのか? だが、承知しておくがいい、今や、まさしく今日、人々はいつの時代にもまして自分たちが完全に自由であると信じきっているけれど、実際にはその自由を自ら我々のところに持ってきて、素直にわれわれの足もとに捧げたのだ。しかし、それをやってのけたのはわれわれだし、お前の望んでいたのもそのことだったのではないか、そういう自由こそ?』」
「イエズス会」については、(359)で説明しましたが、簡単に言うと、ローマ教皇への絶対服従を誓い、プロテスタントに対抗してカトリックの世界布教を目指し伝道に努めることを使命としている修道会です。
ここで語られているのは「自由」です。
「自由」の概念がよくわかりませんがこの「自由」とは何でしょうか。
民衆は、自分たちの「自由」を教会に預けたことで、完全な「自由」を得たと信じているということですね。
つまり「自由」とは人々に考えることを要求してくるものであり、それに耐えられぬ人々は安心を得るために、その「自由」を信頼できる教会に預けたということでしょうか。
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