「イワン」の会話の続きからです。
・・・・自分で判断してみるがいい、お前と、あのときお前に問いを発した悪魔と、いったいどちらが正しかったか? 第一の問いを思いだすのだ。文字どおりでこそないが、意味はこうだった。《お前は世の中に出て行こうと望んで、自由の約束とやらを土産に、手ぶらで行こうとしている。ところが人間たちはもともと単純で、生れつき不作法なため、その約束の意味を理解することもできず、もっぱら恐れ、こわがっている始末だ。なぜなら、人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかったからなのだ! この裸の焼野原の石ころが見えるか? この石ころをパンに変えてみるがいい、そうすれば人類は感謝にみちた従順な羊の群れのように、お前のあとについて走りだすことだろう。もっとも、お前が手を引っ込めて、彼らにパンを与えるのをやめはせぬかと、永久に震えおののきながらではあるがね》ところがお前は人間から自由を奪うことを望まず、この提案をしりぞけた。服従がパンで買われたものなら、何の自由があろうか、と判断したからだ。お前は、人はパンのみにて生きるにあらず、と反駁した。だが、お前にはわかっているのか。ほかならぬこの地上のパンのために、地上の霊がお前に反乱を起し、お前とたたかって、勝利をおさめる、そして人間どもはみな、《この獣に似たものこそ、われらに天の火を与えてくれたのだ!》と絶叫しながら、地上の霊のあとについて行くのだ。お前にはわかっているのか。何世紀も過ぎると、人類はおのれの叡智と科学との口をかりて、《犯罪はないし、しがたって罪もない。あるのは飢えた者だけだ》と公言するようになるだろう。《食を与えよ、しかるのち善行を求めよ!》お前に向ってひるがえす旗にはこんな文句が書かれ、その旗でお前の教会は破壊されるのだ。お前の教会の跡には新しい建物が作られる。ふたたび恐ろしいバベルの塔がそびえるのだ。もっとも、この塔も昔のと同様、完成することはないだろうが、いずれにせよ、お前はこの新しい塔の建設を避けて、人々の苦しみを千年分も減らしてやることができたはずなのだ。なぜなら、人々は千年もの間この塔に苦しみぬいたあげく、われわれのところへやってくるにきまっているからな!・・・・
ここで切ります。
悪魔は「人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかった」と言います、そして服従を求めています。
つまり、キリスト=自由、悪魔=服従の対立なのです。
人間は自由のために千年苦しんだ、「人はパンのみにて生きるにあらず」と理想を掲げたが、そのために千年苦しんだ。
たしかに人間は動物ではないので「人はパンのみにて生きるにあらず」は正しいのはあるが、パンのみで生きることすら実際に人間にとって困難であり、その困難さはさまざまな不幸とともに現在もあり続ける。
つまり服従を避けつづけて生きていくために、言葉を変えれば、ただ食べるためだけのことで、実際にそれだけのことで人間は千年苦しんできた、あげくのはてに、新しい思想のもとに新しい支配のシステムが完成されようとしているがそれも中途半端であり失敗に終わるだろう、そして最後には食べるため、生存するために自由を手渡し悪魔に服従を望むということでしょうか、そしてそれは何を意味するのでしょうか。
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