「イワン」の会話の続きからです。
・・・・彼らをふたたび欺くわけだ。なぜなら、お前を二度とそばへ寄せつけはしないからな。この欺瞞の中にこそ、われわれの苦悩も存在する。なぜなら、われわれは嘘をつきつづけなければならなぬからだ。これこそ、荒野での第一の問いの意味したものだし、お前が何よりも大切にした自由のために拒絶したものも、これにほかならない。また、一方、この問いにはこの世界の偉大な秘密がふくまれてもいたのだ。《パン》を認めていれば、お前は、個人たると全人類たるとを問わずすべての人間に共通する永遠の悩みに答えることになったはずだった。その悩みとは、《だれの前にひれ伏すべきか?》ということにほかならない。自由の身でありつづけることなった人間にとって、ひれ伏すべき対象を一刻も早く探しだすことくらい、絶え間ない厄介な苦労はないからな。しかも人間は、もはや論議の余地なく無条件に、すべての人間がいっせいにひれ伏すことに同意するような、そんな相手にひれ伏すことを求めている。なぜなら、人間という哀れな生き物の苦労は、わしなり他のだれかなりがひれ伏すべき対象を探しだすことだけではなく、すべての人間が心から信じてひれ伏すことのできるような、それも必ずみんながいっしょに(九字の上に傍点)ひれ伏せるような対象を探しだすことでもあるからだ。まさにこの跪拝の統一性という欲求こそ、有史以来、個人たると人類全体たるとを問わず人間一人ひとりの最大の苦しみにはかならない。・・・・
内容的にも途中ですが、ここで切ります。
「荒野での第一の問いの意味したもの」は「欺瞞」だと言っています。
「マタイによる福音書」によれば、この「第一の問い」というのは、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」というものでした。
この意味が、「欺瞞」ということならば、あまりにも抽象的すぎて理解に苦しみます。
「パン」というのは、これは実際のパンのことでもあるし、拡大解釈すれば食のことだけでなく、生きるための物質的なあらゆる条件ということになります。
たとえば、「石」と「パン」が交換可能なものとして、A=Bという形で置かれていることとは違うと思います。
つまり悪魔は、AをBに変換するマジックをキリストに要求しているのではなく、全能の神であるなら、すべてを作り変えろと言っているのではないでしょうか。
それにしてもよくわかりません。
この「第一の問い」の意味することと言うのは、悪魔にとってそれが結局は、本当のことを表に出せず、キリストの存在を隠しつづけなければならないということであり、それは悪魔の主観にほかならないとおもうのですが。
この辺の理解については自分ではさっぱりわかりません、いろんな人が解説をしているはずですので、いずれ読んでみようと思います。
また、「第一の問い」には秘密が含まれており、それは人間の「跪拝の統一性という欲求」というのです。
人間は、みんながいっせいにひれ伏す対象を探すものだと言うことですが、これは違うように思うのですが。
いわゆる広い意味での神ということですね。
それは、キリストであったり、お金であったり、イデオロギーであったりするかもしれませんが、これらは人間が要求したものではなく、現象としてあるのではないでしょうか、それとも人間に本来的にそうした欲望があるからなのでしょうか。
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