2017年9月21日木曜日

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「イワン」の会話の続きからです。

・・・・パンさえ与えれば、人間はひれ伏すのだ。なぜなら、パンより明白なものはないからな。しかし、その一方、もしだれかがお前に関係なく人間の良心を支配したなら、そう、そのときには人間はお前のパンすら投げ棄てて、自己の良心をくすぐってくれる者についてゆくことだろう。この点ではお前は正しかった。なにしろ、人間の生存の秘密は、単に生きることにあるのではなく、何のために生きるかということにあるのだからな。何のために生きるかという確固たる概念なしには、人間は生きてゆくことをいさぎよしとせぬだろうし、たとえ周囲のすべてがパンであったとしても、この地上にとどまるよりは、むしろわが身を滅ぼすことだろう。それはまさにそのとおりだが、しかし結果はいったいどうだ。お前は人間の自由を支配する代りに、いっそう自由を増やしてしまったではないか! それともお前は、人間にとって安らぎと、さらには死でさえも、善悪の認識における自由な選択より大切だということを、忘れてしまったのか? 人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれど、同時にこれほど苦痛なものもない。ところが、人間の良心を永久に安らかにしてやるための確固たる基盤の代りに、お前は異常なもの、疑わしいもの、曖昧なものばかりを選び、人間の手に負えぬものばかりを与えたため、お前の行為はまるきり人間を愛していない行為のようになってしまったのだ。しかも、それをしたのがだれかと言えば、人間のために自分の生命を捧げに来た男なのだからな! 人間の自由を支配すべきところなのに、お前はかえってそれを増やしてやり、人間の心の王国に自由の苦痛という重荷を永久に背負わせてしまったのだ。・・・・

ここで切ります。

「パンさえ与えれば、人間はひれ伏すのだ。なぜなら、パンより明白なものはないからな。」というのは無意味な発言ですね。

なぜ人間はパンを与えればひれ伏すがの説明にはなっていません。

この辺で大審問官の言っていることの筋みちが立たなくなってきます。

あれほど、パン第一主義的な発言をしていたのですが、人間の良心を支配すれば「パンすら投げ棄てて」そちらについていくと言っています。

しかも、「人間の生存の秘密は、単に生きることにあるのではなく、何のために生きるかということにあるのだからな」とまで言いだしました。

そして「何のために生きるかという確固たる概念なしには、人間は生きてゆくことをいさぎよしとせぬだろうし、たとえ周囲のすべてがパンであったとしても、この地上にとどまるよりは、むしろわが身を滅ぼすことだろう」と。

「いさぎよしとせぬ」という言葉がここで使われているのはおかしいですね。

そして、「パンすら投げ棄てて」の文脈の不整合さを何とかしたいと思ったのでしょうか、唐突に「たとえ周囲のすべてがパンであったとしても」なんていう言葉を挟んでいます。

つまり、人間は「何のために生きるかという確固たる概念」が「地上のパン」より上位に来ているばかりか、その概念がなければ生きていけないとまで言っています。

これまでの話は何だったんでしょう。

また彼は「人間の自由」を支配すべきだと思っているのですが、ここでいう「良心の自由」もその「人間の自由」に含まれており、キリストはその「良心の自由」について、それを増やしたと批判しています。


そしてキリストは「異常なもの、疑わしいもの、曖昧なもの」を人間に与えて、人間に「良心の自由」をもって判断させるという苦痛をも与えたということでしょうか。


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