2017年9月23日土曜日

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「イワン」の会話の続きからです。

・・・・地上には三つの力がある。そしてただその三つの力のみが、こんな弱虫の反逆者たちの良心を、彼らの幸福のために永久に征服し、魅了することができるのだ。その力とは、奇蹟と、神秘と、権威にほかならない。お前は第一の力も、第二も、第三もしりぞけ、みずから模範を示した。聡明な恐ろしい悪魔が寺院の頂上にお前を立たせて、《もしお前が神の子なのかどうかを知りたければ、下にとびおりてみるがいい。なぜなら、神の子は天使に受けとめられ、運ばれるので、下に落ちることもないし、怪我もしないと書いてあるのだから。そうしてこそ、お前が神の子かどうか、わかるだろうし、そうしてこそ父なる神へのお前の信仰がどんなものなのかえを証明できるのだ》と言ったとき、お前をそれをきき終ってから、提案をしりぞけ、誘いにのらず、下にとびおりたりしなかった。ああ、もちろんあの場合お前は、神として、誇り高く立派に振舞った。だが人間が、この弱虫な反逆者の種族が、いったい神だろうか? そう、あのとき、一歩踏みだしさえすれば、とびおりようと身動きしさえすれば、とたんに神を試みることになり、神への信仰をことごとく失って、お前が救うために来た大地にぶくかって大怪我をしたにちがいないし、お前を試した聡明な悪魔が大喜びしたにちがいないことを、お前はさとったのだ。だが、もう一度言うが、人間の本性は、奇蹟をしりぞけるように創られているだろうか? 人生のこんな恐ろしい瞬間、つまり心底からのいちばん恐ろしい、根本的な、やりきれぬ疑問に苦しむ瞬間に、心の自由な決定だけですましていられるなんて、そんなふうに人間の本性は創られているのだろうか? そう、お前は自分の偉業が福音書に書きとどめられ、末長く地の果てまで到達することを知っていたので、人間もお前に倣って奇蹟をしりぞけるやいなや、ただちに神をもしりぞけてしまうことを、お前は知らなかった。なぜなら、人間は神よりはむしろ奇蹟を求めているからなのだ。そして人間は奇蹟なしにいつづけることなぞできないため、今度はもう新しい、自分自身の奇蹟を作りだして、祈祷師に奇蹟や、まじない女の妖術にひれ伏すようになる。たとえ自分がたいそうな反逆者で、異端者で、無神論者であったとしてもだ。・・・・

ここで切ります。

地上には、奇蹟と神秘と権威という三つの力があるということですが、これらは神の属性でしょう。

次に二つ目の悪魔の問いです。

「マタイによる福音書第四章」にはこう書かれていました。

「それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。」

ここでは、神を疑い試すことはいけないことだという神に対する信の深さ、つまり絶対的な信のあり方が語られています。


しかし、人間の本性はそんな信のあり方になく、たとえ卑近なものであっても奇蹟を信じたがるのだと大審問官は言っています。


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