「イワン」の会話の続きからです。
・・・・人々がお前をからかい、愚弄して、《十字架から下りてみろ、そしたらお前が神の子だと信じてやる》と叫んだとき、お前は十字架からおりなかった。お前が下りなかったのは、またしても奇蹟によって人間を奴隷にしたくなかったからだし、奇蹟による信仰ではなく、自由な信仰を望んだからだ。お前が渇望していたのは自由な愛であって、永遠の恐怖を与えた偉大な力に対する囚人の奴隷的な歓喜ではなかった。だが、ここでもお前は人間をあまりにも高く評価しすぎたのだ。なにしろ彼らは、反逆者として創られたとはいえ、もちろん囚人だからだ。あたりを見まわして、判断するがいい。すでに十五世紀が過ぎ去ったけれど、お前が自分のところまで引きあげてやったのがどんな連中だったか、見てみるがいい。誓ってもいい。人間というのは、お前が考えているより、ずっと弱く卑しく創られているのだぞ! その人間に、お前と同じことがやりとげられるだろうか? お前は人間を尊ぶあまり、まるで同情することをやめてしまったかのように振舞った。それというのも、人間にあまり多くのものを要求しすぎたからなのだ。しかも、それがだれかと言えば、自分を愛する以上に人間を愛したお前なのだからな! 人間への尊敬がもっと少なければ、人間に対する要求ももっと少なかったにちがいない。それなら、もっと愛に近かったことだろう。なぜって、人間の負担ももっと軽くなっただろうからな。人間は弱く卑しいものだ。人間が今いたるところでわれわれの権力に対して反逆し、反逆していることを誇っているからといって、それがどうだと言うんだ? そんなものは、子供か小学生の誇りにすぎんよ。教室で造反して、先生を追いだした小さな子供たちと同じさ。だが、子供たちの歓喜にもいずれ終りがやってくる。子供たちにとっては高いものにつくだろう。彼らは寺院をぶちこわし、大地を地で汚すことだろう。しかし、愚かな子供たちもしまいには、たとえ自分たちが造反者であるにせよ、自分の造反さえ持ちこたえられぬ意気地なしの造反者にすぎないことに思いいたるのだ。愚かな涙を流しながら、彼らはやっと、自分たちを造反者として創った神は、疑いもなく、自分たちを笑いものにするつもりだったと認める。彼らは絶望しきってそう言うにだが、彼らの言ったことは神への冒涜になり、そのため彼らはいっそう不幸になるだろう。なぜなら、人間の本性は神への冒涜に堪えられずに、結局はいつも本性そのものが冒涜に対する復讐をするからなのだ。というわけで、不安と混乱と不幸とが、彼らの自由のためにお前があれほどの苦しみに耐えぬいたあとの、人間の現在の運命にほかならない! ・・・・
ここで切ります。
私の記憶にありませんが、十字架にかけられたキリストに対して、下りてみろと叫ぶ場面があったのでしょう。
キリストが神の子なら、奇蹟を起こして十字架から下りることもできるのでしょうが、そんなことをして、人々を驚かせてキリスト教に改宗させることは邪道だと。
そうではなくて、キリストは人間がそれぞれの意思でキリスト教を選びとることを望んだと。
しかし、大審問官は人間は実際のところ弱く卑しい存在だからそんなきれいごとではすまない、つまりキリストは人間をかいかぶっているのだと、そしてそのことで結果的に人間を不幸にしていると。
さらに現在、人間は権力にたいする反逆を行なっているが、これは子供的な未熟な反逆で、子供と同じようにいずれ反省の段階に移行し、その時には大きな代償を払うだろう、そして、人間の本性はそういうものとして創られているからだと。
結局ここで大審問官は人間の現在の運命、つまり現状は不安と混乱と不幸だと言っています。
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