「イワン」の会話の続きからです。
・・・・お前の偉大な預言者(訳注 ヨハネのこと)は、最初の復活につらなった者をすべて見たがその数は各部族から一万二千人ずつだったと、幻想と比喩に託して語っている(訳注 ヨハネ黙示録第七章)。しかし、彼らの数がそれだけだとしたら、彼らも人間ではなく、神のようなものではないか。彼らはお前の十字架を堪え忍び、いなごと草の根とで生命をつなぎながら、飢えと裸の荒野の何十年かを堪えぬいたのだ。だから、もちろんお前は、自由と、自由な愛と、お前のための自由で立派な犠牲との子らを、誇らしげにさし示してかまわない。だが、彼らがたった数万人でしかなく、それも神にひとしい人々であることを思いだすがよい。そのほかの人たちはどうなのか?・・・・
短いけどここで切ります。
「ヨハネ黙示録第七章」です。
この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリの部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、ゼブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。」
大審判官は、選ばれたイスラエルのユダ、ルベン、ガド、アセル、ナフタリ、マナセ、シメオン、レビ、イサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンの十二の部族のそれぞれ一万二千人、合計十四万四千人という数に注目していて、それ以外の人々はどうなるのかと言っています。
たしかに、「ヨハネ黙示録第七章」では、選民ということが大きな問題になりますね。
宗教のような概念的なことに関しては、実数的なことの根拠はないのではないでしょうか。
仏教の経典では、とてつもない桁数をあげてこの辺のことはうまくできていると思いますが。
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