「イワン」の会話の続きからです。
・・・・その無理解をいちばん助長してきたのはだれか、言ってみるがいい。いったいだれが羊の群れをばらばらにし、勝手知らぬいくつもの道にちらばしたのだ? だが、羊はふたたび集まり、ふたたび服従する。今度はもう永久になのだ。そのときこそわれわれは彼らに静かなつつましい幸福を、意気地なしの生き物として創られている彼らにふさわしい幸福を授けてやろう。そう、われわれは彼らに結局、驕ってはならぬと説いてやるのだ。それというのも、彼らをお前がおだてあげ、その結果驕ることを教えこんだからだ。われわれは、彼らが意気地なしであり、哀れな子供にすぎぬことを、だが子供の幸福はだれの幸福よりも甘美であることを証明してみせよう。彼らは臆病になり、われわれを注視するようになり、ひよこが親鳥に寄り添うように、おどおどとわれわれにすがりつくようになるだろう。彼らはわれわれに驚嘆し、われわれを恐れ、何十億という荒々しい群れを鎮めてしまえるほどわれわれが強力で聡明なことを自慢するようになるだろう。彼らはすっかりへこたれてわれわれの憤りに震えあがり、彼らの知恵は臆し、目は女子供のように涙もろくなることだろうが、われわれの合図一つで彼らは、同じくらい簡単に快活さや、笑いや、明るい喜びや、幸福そうな子供の歌などに移行することだろう。そう、われわれは彼らを働かせるけれど、仕事から解放された自由な時間には彼らの生活を、歌あり、合唱あり、あどけない踊りありという子供の遊戯のようなものにしてやるつもりだ。そう、われわれは彼らに罪を犯すことさえ許してやる。彼らは弱く、無力だから、罪を犯すことを許してやったというので、われわれを子供のように慕うことだろう。われわれは、どんな罪でもわれわれの許しを得てなされたのであれば償われる、と言ってやるつもりだ。彼らを愛していればこそ、罪を犯すのを許してやるのだし、その罪に対する罰は、当然われわれがひっかぶるのだ。かぶってやれば、彼らは、神に対する罪をわが身にかぶってくれた恩人として、われわれを崇めるようになるだろう。そして彼らはわれわれに対して何の秘密も持たなくなる。彼らが妻や恋人と暮すことも、子供を持つか持たぬかということも、すべて服従の程度から判断して許しもしようし、禁じもしよう。そうすれば、彼らは楽しみと喜びとを感じてわれわれに服従するだろうからな。良心のもっとも苦しい秘密さえ、彼らはすべてわれわれのことろに持ってくるだろうし、われわれはすべてを解決してやる。そして彼らは大喜びでわれわれの決定を信ずるのだ。なぜなら、その決定こそ、個人の自由な決定という現在の恐ろしい苦しみや、たいへんな苦労から、彼らを解放してくれるからだ。そして、すべての人間が幸福になるだろう。彼らを支配する何十万の者を除いて、何百万という人々がすべて幸福になるのだ。それというのも、われわれだけが、秘密を守ってゆくわれわれだけが不幸になるだろうからな。何十億もの幸福な幼な子を、善悪の認識という呪いをわが身に背負いこんだ何十万の受難者ができるわけだ。・・・・
ここで切ります。
この部分で驚いたのは、この支配する者と支配される者という構図の中で、支配する者が何十万人もいることです。
延々と続く大審問官の口から発せられる悪魔側の言い分を聞いていると何だか、現代の支配層と被支配層との関係のように思えてきます。
悪魔の側は被支配層に生きていけるだけのものを与え、喜びも苦しみもコントロールするということですね、それが一番いいことだという悪魔側の理念の表明でしょうか。
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