もうずいぶん遅かったのですが、「イワン」はまだ眠れずに、考えごとをしていました。
この夜、彼が床についたのは遅く、二時ごろでした。
しかし、今は彼の思考の流れをすべて伝えるのはやめておきましょう。
それに、まだ彼の心に立ち入るべきときではありません。
いずれ彼の心を語る順番がくるのです。
今後の展開を知っている者にとっては、なるほどあのことの伏線がここで書かれているのかと思うことでしょう。
また、かりに何かを伝えようと試みたところで、それはいたってむずかしいのです。
なぜなら、彼の心にあるのは、まだまとまった考えではなく、何かきわめて漠然とした、そして何より特に、あまりにも昂ぶりすぎたものだったからです。
彼自身、自分がすっかり常軌を逸しているのを感じていました。
それにまた、ほとんどとっぴともいえるさまざまの奇妙な欲求に苦しめられもしました。
たとえば、もう真夜中すぎだというのに、突然こらえきれぬほど執拗に、今すぐ下におりていって戸を開け、離れに行って「スメルジャコフ」をたたきのめしてやりたいという気持ちにかられるのでした。
しかし、なぜときかれたら、彼自身も、あの召使は世界じゅうに類のないくらい、およそ鼻持ちならぬ無礼者なので憎くてたまらなくなった、ということ以外に、何一つ正確に理由を述べることはできなかったにちがいありません。
作者はずっと未来から今を眺めて書き進めていることがわかりますが、それだけではなくこの書き方は重要な要素が含まれており、それは「イワン」の無意識を通して語られる、いや語られてもいませんが彼の無意識の中にはある意味彼を超越した普遍的なことが含まれているということを暗示させます。
また一方では、この夜、彼は何か説明のつかない屈辱的な臆病さに一度ならず心を捉えられ、そのために、自分でも感じていたのですが、肉体的な力さえ失くしたかのようでした。
頭が痛み、めまいがしました。
まるでこれからだれかに復讐しに行こうとしているかのように、憎悪の塊が心をしめつめました。
先ほどの会話を思いだすと、「アリョーシャ」さえ憎かったし、時には自分までひどく憎いのでした。
「カテリーナ」のことはほとんど考えるのも忘れており、あとでこのことをひどくふしぎに思ったものです。
まして、つい昨日の朝、「カテリーナ」のところで、明日はモスクワへ行くのだとたいそうな啖呵を切ったとき、一方では内心ひそかに『ばかを言うな、行かれるもんか。今そんな虚勢を張っているほど、未練を断ち切るのはたやすいことじゃないんだぞ』とつぶやいたのを、自分でもはっきりおぼえているだけに、よけいふしぎでした。
ずっとあとになってこの一夜を思いだすたびに、「イワン」は一種特別な嫌悪とともに思い起したのですが、その夜彼は何度か突然ソファから立ちあがって、まるで監視されてはいないかとひどく恐れるみたいに、そっとドアを開けて、階段の上に出ては、階下の部屋の様子や、「フョードル」が下の部屋で身動きしたり歩きまわったりしている気配に耳をすまし、永いこと、そのつど五分くらいずつ、何か異様な好奇心を燃やし、胸をどきつかせながら、息を殺してきき入っていたものであり、それでいて何のためにそんなことをしているのか、何のために耳をすましているのか、もちろん、自分でもわからないのでした。
この《行為》を彼はそのあと一生の間、《醜悪な》行為とよび、生涯を通じて心ひそかに深く、自分の一生の中でももっとも卑劣な行為と見なしていました。
なぜ、「イワン」はこの《行為》を卑劣な行為と思ったのでしょうか、作者がここまで強調するのはそれだけの理由があるからでしょう、あとあとまで記憶しておくべき重要な一文だと思います。
つまり表面上は、これから起る「フョードル」殺害事件の犯人が仮に「スメルジャコフ」であるとするならば、「イワン」はそのことを確信しておきながら、それを食い止める積極的な行動は何もせず、成るがままにまかせたということなのですが、彼が《醜悪な》で卑劣な行為と一生思い続けたのは、「まるで監視されてはいないかとひどく恐れ」るようにと書かれていいるように、たぶん神であり、自分の良心であるものに、「何か異様な好奇心」が打ち勝った過程において、その心の葛藤の中に醜悪で卑劣なものを感じたからなのでしょう。
ただし、この物語の犯人については最後まで、誰であるか書かれていないのですが。
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