「イワン」は幌馬車に乗りこみました。
「さよなら、イワン、あまり俺をわるく思うなよ!」
最後に父が叫びました。
ここで「最後に」と書かれているのは、本当の意味での最後になるのですから、「フョードル」の「さよなら、イワン、あまり俺をわるく思うなよ!」というセリフもいろいろな意味が込められており、感慨深いものがあります。
家中の者がみな、送りに出ていました。
つまり、「スメルジャコフ」と、「マルファ」と、「グリゴーリイ」です。
「イワン」はみなに十ルーブルずつ与えました。
このちょっとした気遣いの記述はほっとさせられます。
彼が幌馬車に乗りこむと、「スメルジャコフ」が敷物を直しに駆けよりました。
「どうだ・・・・これからチェルマーシニャへ行くんだぜ」
ふいに「イワン」の口をついて、こんな言葉が出ました。
昨日と同じようにまた、言葉がひとりでに飛びだした感じで、しかも何やら神経質な笑い声までともなっていました。
このことを彼はそのあといつまでもおぼえていました。
あくまでもこの「イワン」と「スメルジャコフ」の間の関係には、神がかった運命じみたようなものを感じさせる書き方となっています。
「してみると、賢い人とはちょっと話してもおもしろい、と世間で言うのは本当でございますね」
ここでの「賢い人とはちょっと話してもおもしろい」という言葉の真意は何でしょう、「スメルジャコフ」はどうしてそう言ったのでしょう、たぶん言葉の意味するところを言葉以外のところで理解し得ていると「スメルジャコフ」は思っているということでしょう。
感に耐えぬように「イワン」を眺めやって、「スメルジャコフ」がしっかりした口調で答えました。
幌馬車がごとんと動き、ひた走りはじめました。
旅行者の心中は混乱していましたが、彼は周囲の野原や、丘や、木々や、頭上高く澄みきった空を渡り過ぎる雁の群れなどをむさぼるように眺めていました。
と、ふいに実に爽快になってきました。
馭者と話してみようと試み、百姓の答えたことのうち何かがひどく興味をそそりましたが、しばらくすると、すべてが耳もとを素通りし、正直のところ、百姓の答えたことなどわからなかったのに思い当たりました。
彼は口をつぐみました。
そのままでも快適でした。
大気は清く、すがすがしく、ひんやりとしており、空は澄みわたっている。
「アリョーシャ」と「カテリーナ」の面影が頭の中にちらと浮びかけました。
しかし、静かに苦笑し、愛すべき幻影にそっと息を吹きかけると、消えとんでしまいました。
『彼らの時代はこれから先まだ来るだろう』
彼は思いました。
「イワン」の思った『彼らの時代はこれから先まだ来るだろう』という言葉、これは意味深長です。
普通はこんな言葉は出てこないと思いますが、おそらく、作者の死によって書かれなかったこの物語の第二部を暗示しているのだと思います。
そして、その中に「イワン」はいないのでしょうか。
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