晩の七時に、「イワン」は汽車に乗り、モスクワに向かいました。
『今までのことはみんな、さよならだ。これまでの世界とは永久に縁を切って、何の消息もきかぬようにするんだ。新しい世界へ、新しい場所へ、あともふりかえらずに入って行こう!』
しかし、喜びの代りに突然、真っ暗な闇が心を閉ざし、これまでの生涯に一度も味わったことのないような悲しみが胸内でうずきはじめました。
彼は夜どおし考えぬきました。
汽車は走りつづけ、暁方、すでにモスクワに入ることになってやっと、彼はふいにわれに返った心地になりました。
「俺は卑劣な人間だ!」
心ひそかに彼はつぶやきました。
これが「イワン」の自分自身に対する総括ですね。
よく言われるように「スメルジャコフ」が「フョードル」を殺害することを暗に示唆したとか、そうなるかもしれないことを彼は確信していたとか、ここまで読んできても私は気づきませんでした。
ただ、ここでの「俺は卑劣な人間だ!」というつぶやきは、彼が逃げたことの一点にかかる言葉だと思います。
また、(564)で「スメルジャコフ」が「あなたをお気の毒と思えばこそ、申しあげたんでございますよ。わたしが若旦那さまの立場に置かれたら、即座に何もかも放りだしてしまいますがね・・・・こんな事件の巻添えをくよりは・・・・」と言っていますが、これは「イワン」の行動を先取りした発言ですね。
一方、「フョードル」は息子を送りだしたあと、しごく満足でした。
まる二時間というもの、ほとんど幸福に近い気分で、コニャックをちびちびと舐めていました。
ところが突然、屋敷の中に、あらゆる人にとってきわめて腹立たしい不愉快な事態が生じ、一瞬のうちに「フョードル」を極度の困惑におとし入れました。
「スメルジャコフ」が何かの用で穴蔵に行き、いちばん上の段からころげ落ちたのです。
たまたまそのときマルファが中庭にいて、折よく物音をききつけたのが、まだしも幸いでした。
ころげ落ちるところこそ見ませんでしたが、その代り彼女は悲鳴をききました。
一種特別の、異様な、しかし彼女にはもうずっと以前から馴染み深い悲鳴で、発作を起して倒れる癲癇患者の悲鳴でした。
階段を下りようとしかけた瞬間に発作を起し、そのため、当然のことながら、とたんに意識不明になってころげ落ちたものか、それとも反対に、転落とショックとで、有名な癲癇持ちである「スメルジャコフ」に発作が起ったのか、それは判じえませんでしたが、すでに穴蔵の底で全身を海老のように曲げて痙攣しながら、のたうちまわり、口から泡をふいているところを発見されたのでした。
最初みなは、きっと手か足でも折って大怪我したにちがいないと思ったのですが、「マルファ」の言葉を借りるなら、《神さまのお守りがあって》、格別そんなこともありませんでした。
ただ、彼を穴蔵から地上にかつぎだすのがたいへんでした。
しかし、近所の人たちに応援を求め、なんとか運びだしました。
(558)で「スメルジャコフ」は、「・・・・わたしはきっと明日、長い癲癇が起るにちがいないと思ってるんです」と言っていました、さらに「長い発作ですよ。おそろしく長い。数時間か、さもなければ、おそらく一日二日はつづきますですね。一度なぞ、三日つづいたことがございました。そのときは屋根裏から落ちたんです。痙攣がとまるかと思うと、またはじまりましてね。三日間というもの、正気に返れませんでしたよ。あのときは大旦那さまがここの医者ヘルツェンシトーベ先生をよびにやってくだすって、先生が頭のてっぺんに氷をあててくださったうえ、さらに薬を一つ使ってくださいましたんで・・・・危うく死ぬところでございましたよ」と、そして「イワン」が癲癇の予測なんかできないと言ったことに対して、(559)で「屋根裏へは毎日のぼりますからね、明日だって屋根裏から落ちるかもしれませんですよ。屋根裏からでないとすれば、穴蔵へ落ちるでしょうね。穴蔵へも毎日行きますから。自分の用事で」とまで言っています。
不思議なのは、「イワン」に仮病と言われた「スメルジャコフ」は「かりにわたしがそんな芸当までしかねないとしても、・・・・」と言っていることです。
ですから、これは仮病なんでしょうか、症状からいえばそうは思えませんが、はっきりしたことはわかりません。
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