太陽がかがやき、木の葉はよろこびきらめき、小鳥は神をたたえている・・・・わたしは両手で顔を覆うなり、ベッドに倒れ伏し、声をあげて泣きだした。
(587)でも書いたように、窓を開け、外の「小鳥だの、木々だの、草原だの、大空」などの自然を見て神に気づくというのは、兄「マイケル」もそうでしたね。
そしてそのとき、兄マイケルを、そして死ぬ前に召使たちに言った兄の言葉を思いだしたのだった。
「お前たちはやさしくて親切だね。どうして僕に仕えてくれるんだい? 仕えてもらうような値打ちが僕にあるだろうか?」–「そうだ、俺にそんな値打ちがあるだろうか?」
ここで思い出したのは十七歳の「マイケル」の死ぬ前の言葉で、(586)で書きましたが、「お前たちはやさしくて親切だね。どうして僕に仕えてくれるんだい? 仕えてもらうような値打ちが僕にあるだろうか? もし神さまのお恵みがあって、生きていられたら、今度は僕がお前たちに仕えるよ。だって人間はみな互いに奉仕し合わなけりゃいけないものね」というものでした。
突然わたしの頭にひらめいた。
実際、何の値打ちがあってわたしは、ほかの人間に、わたしと同じように神がおのれに似せて創った人に、仕えてもらっているのだろう?
生まれてはじめてこのとき、こんな疑問がわたしの頭に突き刺さった。
「お母さん、僕の血潮である大事なお母さん、本当に人間はだれでも、あらゆる人あらゆるものに対して、すべての人の前に罪があるんです。人はそれを知らないだけですよ、知りさえすれば、すぐにも楽園が生れるにちがいないんです!」
ああ、はたしてこれが誤りであろうか、わたしは泣きながら思った。
ことによると本当に、わたしはすべての人に対して世界じゅうのだれよりも罪深く、いちばんわるい人間かもしれない!
こう思うと突然、いっさいの真実が、理性の光に照らされて目の前にあらわれた。
「ゾシマ長老」の神への目覚めについて書かれているのですが、もともと彼の内面にあったものが、あるきっかけによって突然目覚めたということでしょう。
ここで切ります。
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