第三部
第七編 アリョーシャ
一 腐臭
永眠したスマヒ僧ゾシマ長老の遺体は、定められた儀式にのっとって埋葬の準備がすすめられました。
周知のように、修道僧やスマヒ僧が死んでも、湯灌はしないことになっています。
『修道僧たる者が主の身許に召されたときは(と大式典礼文に記されている)、役にある修道僧(つまり指名された者)が、まず唇で(つまり海綿で)、故人の額、胸、両手、両足、両膝に十字を切りながら、遺体を温湯でぬぐい、それ以上何もしてはならない』
長老に対しては「パイーシイ神父」がみずから、これらすべてを行いました。
湯でぬぐったあと、修道僧の礼服を着せ、長いマントで包みました。
十字の形にマントを巻きつけるため、規則どおり、マントに鋏を少し入れました。
頭にはギリシャ十字架(訳注 ギリシャ正教で一般に用いられるもので、『横三本のうち一番下が右下がりの十字架』の形。上の横線はキリストが磔になったときにつけれれた罪状の札、下の斜線はキリストの足台を意味する)のついた頭巾をかぶせたが、頭巾は前を開けたままにして、個人の顔は黒い聖餐布で覆われました。
両手には救世主の聖像を抱かせました。
こういう姿のまま、朝方近く遺体は、すでにだいぶ前から用意されていた柩に移されました。
作者が何らかの文献を見て記述しているのでしょうが、ここまで遺体の処理について微細に描写しなければならないものでしょうかと少し不思議に思います。
柩はまる一日、庵室に(今は亡き長老が修道僧や俗界の人々と面会した、例のとっつきの広い部屋である)、安置されることになっていました。
故人の僧位がスマヒ僧だったため、司祭修道士や補祭たちは詩篇ではなく、福音書を読まねばなりませんでした。
追善ミサがすむと、すぐに「イォシフ神父」が朗読をはじめました。
「パイーシイ神父」も、あとでみずから終日終夜、朗読するつもりでいましたが、さしあたり僧庵の司祭主任とともにひどく忙しく、それに気がかりでもありました。
それというのも、修道僧たちの間にも、修道院の宿坊や町からどっと押しかけた俗界の人々の間にも、何やら異常な、前代未聞の《不謹慎》とさえ言える動揺と、性急な期待とが突然あらわれて、時を追うごとにますますいちじるしくなってきたからでした。
司祭主任も「パイーシイ神父」も、ひどくざわざわと動揺している人々を鎮めるのに、精いっぱいの努力を傾けました。
「何やら異常な、前代未聞の《不謹慎》とさえ言える動揺と、性急な期待」というのはこれから起こるかもしれない奇跡の到来なのでしょうが、詳しいことはこれからわかります。
そういうこともあり町の人にとっては、そして修道院の中にも、まるで「ゾシマ長老」の死が喜ばしいことのように思われるような風潮があったように思えます。
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