2017年12月25日月曜日

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すっかり夜が明けてしまうと、町からはもう病人や特に子供を連れたような人たちまで、つめかけてくるようになりました–まるで、自分たちの信仰から言っても、すみやかな治癒の力が即刻あらわれぬはずはないと期待しているらしく、そのためにわざわざこの瞬間を待ち受けていたかのようでした。

ここにいたってはじめて、この町のだれもが今はなき長老を、生前からどれほど疑いもなく偉大な聖者と見なすことに慣れていたかが明らかになったのです。

それに、押しかけてきた人々の間には、決して無知な民衆とばかり言えぬような人たちの姿も見られました。

これほど性急に、露骨に示された信者たちの大きな期待は、苛立たしさと、要求に近い気持さえ、そこにこめられていたため、「パイーシイ神父」には、たとえずっと以前から予感していたとはいえ、実際には予想を上まわるほどの、明らかな罪への誘惑と思われました。

これはどういうことなのでしょうか、つまり「パイーシイ神父」は信者たちのこれらの期待や要求を罪だと思っているということですね。

つまり、こうした期待や要求はしてはならいことだと。

興奮した修道僧と顔を合わせるたびに、「パイーシイ神父」は小言さえ言うようになりました。

「偉大なことをそのように、あまり性急に期待するのは、俗世の人々にのみ許される軽率な振舞いで、われわれにはあるまじきことですぞ」

しかし、そんな言葉などほとんど耳をかしてもらえなかったし、「パイーシイ神父」も不安な気持でそれに気づきました。

とはいうものの、彼自身でさえ(正直に思いだしてみれば)、あまりにも性急な期待に憤慨し、そこに軽率さとむなしさを見たとはいえ、心の奥底ではひそかに、興奮している人々とほとんど同じことを期待していたのであり、それは自分でも認めざるをえませんでした。

にもかかわらず、一種の予感から大きな疑念を心にひき起すような出会いもいくつかあり、それが特に不快でした。

故人の庵室につめかけた群衆の中に見いだして、彼が精神的な嫌悪をおぼえたのは(そんな自分をすぐに非難はしたけれど)、たとえば「ラキーチン」とか、あるいは遠来の客で相変わらず修道院に逗留しているオブドールスクの修道僧とかいう存在で、二人とも「パイーシイ神父」はなぜか突然うさんくさい人物と見なしたのです。

なぜ、「ラキーチン」とオブドールスクの修道僧の二人が名指しされたのでしょうか、それは彼らのひとくせありそうな好奇心ではないでしょうか。

もっとも、その意味で目をつけるべき人物は、この二人に限らなかったのですが。

オブドールスクの修道僧は興奮した人々の中でもいちばんそわそわした姿が目立ち、いたることろ、あらゆる場所でその姿が目につきました。

行く先々で彼は根掘り葉掘りだずね、行く先々できき耳をたて、行く先々でなにやら特に秘密めかしい様子でささやき合っていました。

その表情はこの上なく苛立たしげで、これほど期待しているものがなかなか実現せぬことに苛立っているかのようでした。


さらっと書いていますが、こんな見過ごしてしまいそうな、つまり書かないで飛ばしてしまいそうなことに何となく読者が納得できるような意味付けをほどこしているのはお見事ですね。


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