一方「ラキーチン」はと言えば、あとでわかったことですが、彼がこんなに早々と僧庵に姿を現わしたのは、「ホフラコワ夫人」の特別の頼みによってでした。
この善良だが定見のない女性は、自分が僧庵に入れてもらうわけにゆかぬため、朝起きて、長老の死を知るやいなや、矢も楯もたまらぬほどの好奇心に突然つらぬかれ、ただちに自分の代りに「ラキーチン」を僧庵に送りこんで、彼にすべてを観察させ、そこで起るあらゆること(十一字の上に傍点)をほぼ三十分ごとに、手紙ですぐに報告させることにしたのです。
(634)で「ラキーチン」の好奇心と書きましたが、そうではなくて「ホフラコワ夫人」の好奇心なのですね。
三十分ごととは、おどろきますが、別に誰かを通信役として雇っていたのでしょうか。
そんなに頻繁に連絡を取り、情報を早く知る必要があるのかと思いますが。
彼女は「ラキーチン」をきわめて敬虔な、信心深い青年と見なしていました–それくらいこの青年は、あらゆる人とうまく付き合って、少しでも自分の利益になる相手と見れば、その人の望みどおりの人間になってみせるすべを心得ていたのです。
晴れわたった明るい日だったので、つめかけた信者たちの多くは、僧庵じゅうに散在している墓のまわりにも、また会堂の周囲にいちばん数多く集まっている墓のあたりにも、群がっていました。
僧庵の中をまわっているうちに、「パイーシイ神父」ふいに「アリョーシャ」のことを、もう永いこと、ほとんど昨夜以来ずっと彼の姿を見ていないことを、思いだしました。
思いだしたとたん、その「アリョーシャ」が僧庵のいちばんはずれの一隅の、塀のわきにある、数々の偉業で有名な、昔死んださる修道僧の墓石に腰かけているのを見つけました。
「アリョーシャ」は僧庵に背を向け、塀の方を向いて、石碑のかげに隠れるように坐っていました。
そばまで行って、「パイーシイ神父」は、彼が両手で顔を覆い、声こそたてぬが、嗚咽に全身をふるわせながら悲痛に泣いているのに気づきました。
「パイーシイ神父」はのぞきこむような姿勢でしばらくたたずんでいました。
「もうよい、忰や、もうよい」
万感をこめてやっと神父は言いました。
「どうした? 泣いたりせず、喜ぶがよい。それとも、今日があのお方のもっとも偉大な日であることが、わからぬのか? 今この瞬間、あのお方がどこにおられるか、それを思いだすがよい!」
「アリョーシャ」は幼い子供のように泣きはらした顔から手をどけて神父を見ようとしかけましたが、すぐにまた一言もしゃべらずに、両手で顔を覆いました。
「いや、それでよいのかもしれぬ」
考えこむように「パイーシイ神父」は言いました。
「泣くのもよいだろう。その涙はキリストがお遣わしになったのだよ。『万感あふれるお前の涙は魂の休息にすぎぬが、お前のやさしい心を晴らすには役立つだろうからな』」
「アリョーシャ」をいとおしく思い、そばを離れながら、これはもはや心の中で彼は言い添えました。
そのくせ、彼はなるべく急いでそばを離れました。
それというのも、「アリョーシャ」を見ているうちに、自分まで泣きだしそうなのを感じたからです。
「パイーシイ神父」は(634)で書かれていたように「心の奥底ではひそかに、興奮している人々とほとんど同じことを期待していた」り、泣いている「アリョーシャ」を見て泣きそうになったりと、聖職にありながらも人間的なところがある人物というふうに描かれていますね。
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