その間にも時がたち、故人をしのぶ修道院の勤行と追善ミサは順序正しく行われていました。
「パイーシイ神父」は柩のわきの「イォシフ神父」とふたたび交替し、また福音書の朗読を受けつぎました。
しかし、まだ午後三時もまわらぬうちに、わたしがすでに前の編の終りで触れておいた事態が生じたのでした。
ここで久しぶりに語り手が「わたし」という言葉を使ってあからさまに文章の上に登場してきました。
この「わたし」の出現は突然ですのでかなりのインパクトがありますが、さらに「前の編の終り」という小説の体裁上の具体的な指示までしていますので、これはたいへんなことだろうというふうに読者は思いますね。
それはだれ一人予想もせぬ事態で、みなの期待に真向から反したため、くりかえして言うが、この出来事をめぐる詳細なむなしい話が、この町や近郷一帯でいまだにきわめて生きいきと思いだされるほどなのです。
ここでもう一度、わたしの個人的な意見を付け加えておきましょう。
さらにまた、「わたし」が顔を出しましたね、一体どうしたというのでしょう。
さらっと書き流すことはできると思いますが、こうして「わたし」が出てくるのはどうしてでしょう、ひっかかります。
人を惑わせるようなむなしい、そして本質的にはごく当り前の下らぬ、こんな出来事を思いだすのは、わたしにとっては不快と言ってもよいくらいなので、もしこの事件がわたしの物語の、たとえ未来の(五字の上に傍点)とはいえ、主人公である「アリョーシャ」の魂と心に、ある強烈な影響を与え、心の内にいわば一大転換と変革を起させて、理性を揺すぶり、それでいながら彼の理性を、生涯、一定の目的に向けて、もはや最終的に固めた、ということさえなかったら、もちろんこの物語の中でこんな事件には全然触れずにすましたいところなのです。
ここでさらに二度も「わたし」が登場し、著者はさらに決定的なことを言っていると思います。
むなしくて下らぬ出来事というのは、小見出しにあったように「ゾシマ長老」の腐臭のことだと思いますが、著者の「わたし」は本当はこんなことを実際に書きたくなかったのでしょう。
著者つまり「わたし」は読者がこれを読んで不快感を抱くことを知っており、しかし書いた以上はそのことに意味をもたせるためにこの文章を加えたのではないでしょうか。
この書き方は、小説のはじめに触れられていた「もうひとつの小説」、つまり十三年後の後編と言える「もっと重要な小説」の種明かしにもなっているのではないかと思います。
それは、主人公が「アリョーシャ」であること、そして彼がこの腐臭の件で何らかの影響を受けて、一定の目的に向けて心の内にいわば一大転換と変革を起こしたということです。
これを勝手に予想し拡大解釈すれば、「アリョーシャ」が唯物論的なことに目覚め、革命を目指したということなのかもしれません。
しかし、ここでそんな将来の小説の構想を読者にばらすくらいなら、この腐臭の一件は書かなければいいと思うのですが、もしかしてもう書いてしまって書き直すことができなかったのかもしれないとも考えられますね。
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