それらの中でも特に思い出が保たれているのは、百五歳まで生き永らえた「イオヴ長老」で、これはすでにずっと昔、今世紀の十年代に物故した有名な苦行僧であり、斎戒と沈黙の偉大な行者であったため、はじめてこの修道院を訪れる信者たちはみな、一種特別な並みはずれた尊敬をこめてこの人の墓を示され、なにやら偉大な希望に関して神秘的な口調で説ききかされることになっていました(これは今朝パイーシイ神父がアリョーシャを見いだしたとき、アリョーシャの腰かけていたあの墓である)。
ずっと昔に亡くなったこの長老以外に、比較的近年に物故した偉大なスヒマ僧、「ワルソノーフィイ長老」についても、同じような記憶が今も生きつづけています。
「ゾシマ長老」が長老の位を引き継いだのもこの人からですが、生前この人は修道院を訪れるすべての信者たちから、それこそ神がかりの行者と見なされていたものでした。
この二人の長老に関しては、どちらもさながら生ある人のように柩に横たわり、埋葬されたときにもまったく腐敗していなかったばかりか、柩の中で顔色さえ明るくなったかのようだった、という語り伝えが残っています。
なかには、どちらの遺体からも芳香がはっきり感じとれたなどと、執拗に回想する者さえありました。
不信心者のひねくれ者の私としては、誰かが隠れて芳香剤を塗ったのではと思ってしまいますが。
だが、これほど教訓的ないくつかの思い出にもかかわらず、なぜ「ゾシマ長老」の柩のわきであんな不謹慎な、愚かしい、悪意にみちた事態が生じえたのか、その直接の原因を説明するのは、やはりむずかしいことでしょう。
わたし個人の考えを言うなら、この場合はほかの多くのことや、数多くのさまざまな原因が一度に重なり合って、それが同時に影響を与えたのだと思います。
また出てきました「わたし」です。
それらの中には、たとえば、修道院でいまだに多くの僧たちの心の奥深くに秘められている、有害な新制度たる長老制度に対するきわめて根強い反感さえあったはずです。
さらに、これが肝心な点でもありますが、生前からあまりにも強固に確立したため、反駁することも許されぬかのような感さえあった故人の神聖さに対する妬みも、もちろんあったにちがいありません。
なぜなら、亡くなった長老は多くの人々を、奇蹟よりはむしろ愛によって惹きつけ、自分の周囲に傾倒者の一世界を築いた感はあったものの、それにもかかわらず、いや、それだけにいっそう、ほかならぬそのことによって羨望者をも、さらにつづいて公然、隠然のはげしい敵までも生みだし、しかもそれが修道院の内部だけではなく、俗世の人々の間にさえ見いだされたからです。
「ゾシマ長老」は「奇跡よりはむしろ愛」ですから、不信心者からみればインチキ臭さはないのです。
あくまで不信心者の意見ですが、そのインチキさがないからこそ、自分の死後の身の回りのことについてもあるがままにまかせたのではないでしょうか。
聖者の遺体に香料を塗ることをインチキと言っていいのかどうかわかりませんが、そういうことはしきたりとして当たり前にできたはずで、「ゾシマ長老」はそれを避けたのではないかと思います。
以上は「腐臭」の話ですが、ここではそれによる「騒ぎ」の原因のことが語られています。
早い話、長老はだれにも迷惑をかけたりしませんでしたが、それでも『なぜあの人はあんなに聖人扱いされるのだろう?』という疑問が生じ、この疑問一つだけでも、しだいに反覆されてゆくうちに、ついには飽くことを知らぬ憎悪の深淵を生みだしたわけです。
この一見うまく行っていそうな修道院の中にも「憎悪の深淵」があったと言うのです。
今までも長老制度について賛否があったことが書かれていましたが、それはそうとう根深いものだというのです。
だからこそ、多くの人が長老の遺体から腐臭を、それもこんなに早く(なにしろ、死後まだ一日も経過しなかったのだから)嗅ぎつけて、度はずれに喜んだのだと、わたしは思う。
またまた「わたし」です。
「わたし」の言うこの騒ぎの原因は複合的なもので、それらが同時に影響を与えたというのはなかなか合理的な理由だと思います。
まさに、そういうこともありえるのではないかと思います。
長老に心服し、これまで尊敬してきた人々の中からも同様に、この出来事によって自分が侮辱され、傷つけられたにひとしいと感ずる者も、さっそくあらわれました。
事件の推移は次のようなものでした。
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