2017年12月31日日曜日

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故人のお気に入りだった図書係の柔和な司祭修道士「イォシフ神父」は、悪態屋の何人かに向って「必ずしもそうとは限らない」と反駁しかけました。

行い正しき人の遺体が腐敗せぬ必然性とは、べつに正教の教義ではなくて、一つの見解にすぎないのだし、たとえばアトスのようにきわめて正教のさかんな地方でも、遺体の腐臭にこれほど動揺したりしないし、救済された者をたたえる主要な徴候は遺体が腐敗しないことではなく、遺体がすでに永年にわたって地中に眠ってすっかり腐ったときの骨の色であって、「もし骨が蠟のように黄色くなっていれば、つまり神がその者に栄光を与えなかったということである。昔から正教がもっとも明るい純粋さで揺るぎなく保ちつづけられている偉大な地、アトスではこうなのだ」と、「イォシフ神父」はしめくくりました。

このアトスのことは、「アトス自治修道士共和国」のことで「Wikipedia」の情報に基づき(100)で書きました。

さらに、(128)で「フョードル」の会話にも出てきてます。

しかし、つつましい神父の言葉はどこ吹く風ときき流され、嘲笑的な反抗さえひき起しました。

「あんなのは物知りぶった新説だ。きくにはあたらない」

修道僧たちは心ひそかに決めてかかりました。

「こっちは昔流儀なんだ。このごろはいろいろな新説が出てくるけど、いちいち真似していられるかい?」

ほかの連中が付け加えました。

「ロシアだって、連中に劣らないくらい聖者は大勢いるんだ。連中はトルコの尻にしかれているうちに、すっかり忘れちまったのさ。あっちじゃ正教までとうの昔に濁っちまったんだし、連中には鐘もないんだからな」

いちばん嘲笑的な連中が尻馬にのって言いました。

トルコとの関係については、「コンスタンティノープルが陥落して東ローマ帝国が滅亡したのち、オスマン帝国の支配下にあってもそれぞれの修道院はよく正教の伝統を守り、16世紀ころには、生計の糧としてイコンやフレスコ画などがつくられた。トルコのスルタンたちは、「昼夜を分かたず神の名が称えられる」アトスに、絶大な自治権を認めた。17世紀から18世紀にかけてのアトスは、ギリシャ人の民族心の砦のような役割を果たし、多くのすぐれた教育者を生み、また数多くの識者を育てた。1829年のギリシャ王国のトルコからの独立後はギリシャ政府の保護下に置かれ、治外法権を認められた独立の共和国として今日にいたっている。」とのことですが、「鐘」がないということまでは書かれていません。

この「いちばん嘲笑的な連中」が言った内容については、修道院の中では多くの修道僧が知っていることなのでしょうか。

「イォシフ神父」は悲しい気持ちでその場を離れました。

まして自分でも今の意見をさほど確信をもって口にしたわけではなく、あまり信じていなかっただけに、なおさらのことでした。


図書係の司祭修道士として威厳をもって発言したように見えるのですが、実際はそうではなかったというのはおもしろいですね。


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