こんなとき、そこらの百姓が金の無心でもすれば、彼はただちに札束をそっくりつかみだして、数えもせずに左右に分け与えたにちがいない。
おそらくそのせいだろうか、どうやら今夜は寝床に入るのをすっかりあきらめたらしい宿の主人「トリフォン」が、それでも酒をろくに飲もうとせず(パンチをたった一杯飲んだだけだった)、自分なりの考えで「ミーチャ」の損得に鋭く目をくばりながら、彼を監視すべく、ほとんど付ききりでまわりをうろちょろしていました。
「自分なりの考えで」と書かれていますが「トリフォン」の気持ちは彼自身でもよくわからないかもしれません、何かいいことがありそうな予感と好奇心はもちろんのこと、百姓たちに贅沢をさせればよくない意識が身につくであろうこと、そうなれば自分の儲けが減ってしまう心配もあるでしょうし、自分が百姓を支配しているという意識が百姓たちから消えていくかもしれないということ、「ドミートリイ」の無駄な散財を防いであげるという親心的な意識、宿の主人としての秩序の維持の責任感などたくさんの思いが、そしてその中には矛盾する思いなどもあるのですが、それらが複合しているのでしょう。
必要とあらば、卑屈なほど愛想よく「ミーチャ」を引きとめ、説き伏せて、《いつぞや》みたいに百姓どもに《葉巻やラインぶどう酒》や、まして金なぞを分け与えたりせぬようにし、娘たちがリキュールを飲んだりキャンディを食べたりしているのを、ひどく憤慨してみせるのでした。
「虱たかりしかいませんや、ドミートリイの旦那」
彼は言いました。
「わたしだったら、どの娘っ子だって膝で蹴上げて、それさえ光栄だと思わせてやりまさあ。その程度の連中ですよ!」
「ミーチャ」はもう一度「アンドレイ」のことを思いだし、パンチを届けてやるように言いつけました。
「さっき彼にわるいことをしたんでな」
(751)でも「ドミートリイ」は「アンドレイにわるいことをしたよ!」と言ってウォトカをあげていますが何がそんなに悪いことなのだと意識しているのでしょうか、(740)でのいきさつの件でしょうが「アンドレイ」は彼に「わたしは心配で、旦那・・・・」と言って必要以上のお金を取らなかったのですが、この言葉の裏に「ドミートリイ」は彼の中の誠実さを見抜いたのかもしれませんね。
彼は気弱になりました。
やさしさにあふれる声でくりかえしました。
「カルガーノフ」は飲みたくなさそうな素振りをしかけましたし、娘たちのコーラスも最初はひどく気に入りませんでしたが、シャンパンをグラスに二杯飲むと、ひどく浮かれだして、部屋から部屋へ歩きまわり、笑い声をたて、歌も音楽も、あらゆるもの、あらゆる人をほめちぎりました。
「マクシーモフ」は一杯機嫌でうっとりし、彼のそばを離れようとしませんでした。
やはり酔いのまわりはじめた「グルーシェニカ」は、「カルガーノフ」を指さしては、しきりに「ミーチャ」に言うのでした。
「なんてかわいいんだろう、とってもすてきな坊やだわ!」
これをきくと「ミーチャ」は、大喜びで「カルガーノフ」や「マクシーモフ」と接吻しに駆けて行くのです。
ああ、彼は多くのことを予感していました。
この彼の「多くの予感」というのは読者の想像力を刺激しますね、おそらく一発逆転で彼の最も理想とする予感、あまり現実的ではありませんが、そのまま彼女を連れて遠くへ行ってしまうということでしょう。
彼女はまだ何一つそうしたことを言わなかったし、ときおりやさしい、しかし熱っぽい目で彼を見つめてくれるだけで、明らかにわざを口に出すのを控えているようでした。
が、やがてついに彼女はいきなり彼の手をぎゅっとつかむなり、力いっぱい引き寄せました。
そのとき彼女自身は戸口の肘掛椅子に坐っていました。
「さっきはなんて勢いで入ってきたの、え? なんて入り方! あたし、すっかり震えあがっちゃった。どうしてあんな男にあたしを譲る気になったの、ねえ? ほんとにそう思った?」
「君の幸福をぶちこわしたくなかったんだ!」
「ミーチャ」はうっとりと甘い口調で言いました。
だが、彼女にはその返事も必要ありませんでした。
「じゃ、もう行って・・・・陽気にやってらっしゃい」
またもや彼女は彼を追いたてました。
「泣くんじゃないのよ、またよんであげるから」
なんだか、犬みたいな扱いをされているのですが、男女の間の心の機微なのでそれはそれでいいのでしょう。
そして彼が走り去ると、彼女はまた歌をきいたり、踊りを眺めたりしはじめるのですが、その目は彼がどこにいても、あとを追いつづけ、ものの十五分もたつとまたぞろ彼をよびよせ、彼がふたたび駆け戻ってくる始末でした。
「さ、今度は隣に坐って、話してちょうだい、昨日、あたしがここへ来たことを、どうやってききつけたの? だれからいちばん最初にきいたの?」
そこで「ミーチャ」は、脈絡や順序もなしに一部始終を話しはじめましたが、それにしても奇妙な話しぶりで、しばしばふいに眉をくもらせて言葉を切るのでした。
「どうして眉をひそめたりするの?」
彼女はきいてみました。
「いやべつに・・・・あっちに病人を一人置いてきたもんでね。癒ってくれるなり、癒るとわかりなりすれば、今すぐ僕の十年間を捧げてもいいな!」
これは怪我をさせて「グリゴーリイ」のことでしょうが、なぜ怪我人といわず病人というのでしょうか。
「まあ、どうせ病人なら、放っておきなさいよ。それじゃ、ほんとに明日ピストル自殺するつもりだったの、おばかさんね。でも、理由はなあに? あんたみたいに無鉄砲な人って大好き」
「あんたみたいに無鉄砲な人って大好き」というセリフは何とも言えません。
いくらか重たくなった舌で彼女は甘たるく言いました。
「じゃ、あたしのためになら、どんなことでもしてくれるのね? え? おばかさんね、ほんとに明日ピストル自殺をするつもりだったんだわ! だめよ、当分お預け、明日になればいいことを話してあげるかもしれなくってよ・・・・話すのは今日じゃなく、明日。今日ききたいところでしょう? だめ、今日は言いたくないの・・・・さ、もう行って。今日はあっちへ行って、陽気にやってらっしゃい」
まさしく恋の駆け引きですね。
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