2018年5月25日金曜日

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三 魂の苦難の遍歴-第一の苦難

さて、「ミーチャ」は何を言われているのか理解できずに、坐ったまま、ふしぎそうな眼差しでそこにいる人々を見まわしていました。

突然、彼は立ちあがり、両手をかざして、大声で叫びました。

「無実だ! その血なら無実だ! 親父の血に関しては、僕は無実です・・・・殺したいと思ったことはあったけれど、無実です。僕じゃない!」

わたしはこの「ドミートリイ」の言葉は真実だと思いました、彼は(721)で「これはね、広場で今、婆さんを轢いちまったんです」、(722)で「さる貴婦人が即座に三千ルーブルくれますよ。僕ももらったんだけど、その人はそりゃ大の金鉱好きでね!」とか嘘をついてはいるのですが、基本的には真実の人間だと思います。

しかし、彼がこう叫ぶか叫ばぬうちに、カーテンの奥から「グルーシェニカ」がとびだしてきて、そのまま署長の足もとに突っ伏しました。

この自分の心と直結した行動力が「グルーシェニカ」のいいところだと思います。

「それはあたしです。罪深いあたしです、あたしがわるいんです!」

顔じゅう涙にし、一同に向って両手をさしのべながら、心の張り裂けるような声で彼女は叫びました。

「あたしのために、人殺しまでしたんです! あたしがその人を苦しめて、こんなことにまでしてしまったんです! 死んだかわいそうなあのお年寄りのことも、あたしは意地わるして苦しめてきたので、こんなことになってしまったんです! あたしがいけないんです、あたしが火付け役です、主犯です、あたしがわるいんです!」

「そうよ、お前がわるいんだ! お前がいちばんの犯人だ! お前は半気違いの、淫蕩な女だ。お前がいちばんわるいんだぞ」

片手で脅しながら、署長がわめきだしましたが、ただちに断固として押えられました。

検事なぞ、両手で署長を取り押えたほどでした。

どうも郡署長「ミハイル・マカーロウィチ」は感情的すぎますね、自分が捉えられていてはどうしようもありませんね。

「これじゃ、まるきり滅茶苦茶になっちまいますよ、ミハイル・マカーロウィチ」

彼は叫びました。

「審理をすっかり妨害しているじゃありませんか・・・・ぶちこわしだ・・・・」

彼は息を切らさんばかりでした。

「処置を講じましょう、きびしい処置を」

「ネリュードフ」もひどく激昂しました。

「でなけりゃ、まるきりでませんよ!」

「二人いっしょに裁いてください!」

なおもひざまずいたまま、「グルーシェニカ」が狂ったように叫びつづけました。

「二人いっしょに罰してください、今この人といっしょになら、たとえ死刑でも喜んで受けます!」

「グルーシェニカ、僕の生命、僕の血潮、僕の神聖な宝!」

「ミーチャ」も彼女の隣にひざまずき、固く彼女を抱きしめました。

「彼女の言葉を本気にしないでください」

彼は叫びました。

「彼女には何の罪もありません、だれの血に関しても、何事に関しても!」

あとになって思いだしたのですが、彼は数人の男に力ずくで彼女から引き離され、彼女はふいに連れ去られてしまい、気がつくと自分はもうテーブルの前に坐らされていました。

横にもうしろにもバッジをつけた人々がいました。

テーブルをへだてた向い側のソファに、予審調査官の「ネリュードフ」が坐っており、テーブルの上のコップの水を少し飲むように、しきりにすすめていました。

「気分がすっきりして、落ちつきますよ。ご心配なく。ご安心なさい」

たいそういんぎんに彼は言い添えました。

「ミーチャ」は突然、彼の大きな指輪にひどく興味をそそられたことをおぼえています。

一つは紫水晶で、もう一つは何やら鮮やかな黄色の、透明な、実に美しいかがやきの宝石でした。

その後も永いこと彼は、あの恐ろしい尋問の間でさえずっと、指輪が強い力で眼差しをひきつけ、そのためになぜか目を離すことができず、自分の置かれた立場にまるきりそぐわぬ品物として忘れることでもできなかったのを、ふしぎな気持で思いだしました。


どうすることもできないような恐怖の場面に置かれた時、人間は本能的に恐怖から逃れ出るために何かそういうものを無意識に探し出さざるを得ないのかもしれません、卑近な例では小学生が先生に叱られている時に叱られている内容はそっちのけで先生の洋服のボタンが取れかけているのを夢中になって観察しているようなことと同じかもしれません、しかしこの場合、「紫水晶」と「鮮やかな黄色の、透明な、実に美しいかがやきの宝石」つまり「イエローサファイア」かもしれませんが、この二つの宝石はそれぞれに意味を持たせているのかもしれません。→(815)でこれは「煙色トパーズ」であると「ネリュードフ」自身が言っています。


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