「助けようと思ったんですか?」
「助けるなんて・・・・そう、助けにかもしれないな、おぼえてませんね」
「われを忘れてですか? つまり、なにか無我夢中の状態だったわけですね?」
「いや、違います、無我夢中なんてとんでもない。何もかもおぼえてますよ。細かい点まで全部。様子を見にとびおりて、ハンカチで血を拭いてやったんです」
「あなたのハンカチは、われわれも見ました。あなたは殴り倒した相手を生き返らせたいと思ったんですね?」
「そう思ったかどうか、わかりませんね。ただ、生きてるかどうか、確かめたかっただけです」
「ほう、ただ確かめたかったんですね? で、どうでした?」
「僕は医者じゃないから、断定できなかったんです。てっきり殺したと思って、逃げだしたんですが、相手は意識を取り戻したというわけです」
「結構です」
検事がしめくくりました。
いや、生きているかどうか確かめたかっただけじゃなくて、それならばどうしてハンカチで血を拭ったりしたのかと問わなければならないのではないでしょうか、確かめるだけなら普通そんなことはしないでしょう、この点については(715)で「あとになってはっきり思いだしたことですが、彼はその瞬間、老人の頭をたたき割ってしまったのか、それとも杵で頭頂部を殴って《昏倒させた》だけなのかを、《十分に確かめ》たくてならなかったでした。」と書かれておりまたハンカチで血を拭いながら「『冗談じゃない、何のためにこんなことをしているんだろう?』ふいに「ミーチャ」はわれに返りました。『たたき割ったとすりゃ、いまさら確かめてもはじまらない・・・・それに今となっては、どうせ同じことじゃないか!』突然、絶望的に彼は付け加えました。「殺したものは殺したんだ・・・・爺さんもわるいところへ来たもんだ、じっと寝てるがいい!」彼は大声で言い放つと、いきなり塀にとびつき、路地にとびおりて、まっしぐらに走りだしました」とも書かれていました。
「ありがとうございました。わたしのおききしたかったのは、それだけです。どうぞ先をおつづけになってください」
悲しいかな、「ミーチャ」は、自分が憐れみの気持でとびおり、倒れた相手をのぞきこんで、「爺さんもわるいところへ来たもんだ、仕方がない、じっと寝てるがいい」と悲しそうな言葉をつぶやいたことをおぼえてはいたものの、話そうなどという考えは頭にもうかびませんでした。
さきほど(715)の部分を引用した際、この言葉はでてきましたが、「ドミートリイ」は「つぶやいた」のではなく、「大声で言い放」ったのですね。
ところが検事のほうは、《そんな瞬間に、それほど興奮していながら》、この男がとびおりたのは、犯行の唯一の(三字の上に傍点)目撃者が生きているかどうかを、確実に確かめるためにほかならぬという結論だけを引きだしたのでした。
あのような瞬間でさえ、この男はそれほどの力と、決断力と、冷静さと、計算とを持ち合せていた、というわけだ・・・・検事は満足でした。
完璧な殺人犯に仕立て上げようとしているのですね。
『病的な男を《瑣末なこと》で苛立たせてやったら、口をすべらせた』からでした。
何が《瑣末なこと》でしょうか、一瞬わかりませんでしたが、(805)で「精神的に疲れはて、傷つき、打ちのめされてい」た「ドミートリイ」に対して検事が彼の話しを押しとどめて、「どんなふうに塀にまたがっていたかをもっとくわしく説明するよう頼」んだことをさしていますね、それで「ドミートリイ」が椅子にまたがって実演してみせました、この検事は精神分析が得意なのですが、相手の心を読み取って、精神的に追い詰めていくというなんとも嫌らしい手段を使うのですね、『口をすべらせた』というのも、自分の都合のいいことだけを取り上げてのことです。
「ミーチャ」は苦痛の色をうかべながら先をつづけました。
が、すぐにまた今度は「ネリュードフ」がさえぎりました。
「どうして、そんな血まみれの手をして、おまけにあとでわかったところだと、顔まで血まみれで、女中のフェーニャのところへ駆けこむことができたんです?」
「しかし、そのときは血まみれだなんてことは、まったく気づきもしなかったんですよ!」
「ミーチャ」は答えました。
「ありそうなことですね。そういうことは、ままあるもんです」
検事が「ネリュードフ」と顔を見合わせました。
この検事の行為は、彼にとっては完璧な犯罪者としたい「ドミートリイ」が自分が血まみれであることも気づかないわけはないと内心思ってのことでしょう。
「ほんとに気づかなかったんです。よくわかりますね、検事さん」
これは、本当によくあることでしょうか、それとも本心を棚上げして調子を合わせた検事に対する「ドミートリイ」の皮肉でしょうか。
「ミーチャ」もだしぬけに相槌を打ちました。
だが、それから、「ミーチャ」が《身を引いて》、《幸福な二人をそのまま行かせてやろう》と決心した話になりました。
そして彼は、さっきのように、また心をさらけだし、《心の女王》の話をする気になぞ、もはやどうしてもなれませんでした。
《南京虫のように食いついてくる》、こんな冷たい連中に話すのはいやでした。
だんだんと「ドミートリイ」の心の中にもこの二人の本性がわかってきたようですね、つまりは、彼を犯人に仕上げるための言質をとるだけの尋問なのですから。
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