彼は何やら奇妙な夢を見ました。
この場所にも今の場合にもまったくそぐわぬ夢でした。
彼はどこか曠野を馬車で走っています。
ずっと以前に勤務していた土地です。
みぞれの降る中を、二頭立ての荷馬車で百姓が彼を運んでゆきます。
十一月初め、「ミーチャ」は寒いような気がします。
びしょびしょした大粒の雪が降っており、地面に落ちると、すぐに融けます。
百姓は鞭さばきも鮮やかに、威勢よく走らせます。
栗色の長い顎ひげをたくわえていますが、老人というわけではなく、五十くらいでしょうか、灰色の百姓用の皮外套を着ています。
と、近くに部落があり、黒い、ひどく真っ黒けな百姓家が何軒も見えます。
ところが、それらの百姓家の半分くらいは焼失して、黒焦げの柱だけが突っ立っているのです。
部落の入口の道ばたに女たちが、大勢の百姓女たちがずっと一列にならんでおり、どれもみな痩せおとろえて、何やら土気色の顔ばかりです。
特に、いちばん端にいる背の高い、骨張った女は、四十くらいに見えるが、あるいはやっと二十歳くらいかもしれません。
痩せた長い顔の女で、腕の中で赤ん坊が泣き叫んでいます。
おそらく彼女の乳房はすっかりしなびて、一滴の乳も出さないのでしょう。
赤ん坊はむずかり、泣き叫んで、寒さのためにすっかり紫色になった小さな手を、固く握りしめてさしのべています。
「何を泣いているんだい? どうして泣いているんだ?」
彼らのわきを勢いよく走りぬけながら、「ミーチャ」はたずねます。
「童でさ」
馭者が答えます。
「童が泣いてますんで」
馭者がお国訛りの百姓言葉で、子供と言わずに《童》と言ったことが、「ミーチャ」を感動させます。
百姓が童と言ったのが彼の気に入ります。
いっそう哀れを催すような気がするのです。
「ドミートリイ」はこの先どうなるのかまだわかりませんが、当分は惨めで悲惨な状況が待っていることは確かです、そうした沈んだ気持ちがこのような夢を呼び寄せたのでしょうか、彼の幼年期の記憶の中にこの夢のような情景があるのでしょうか。
「でも、どうして泣いているんだい?」
「ミーチャ」はばかみたいに、しつこくだずねます。
「なぜ手をむきだしにしているんだ、どうしてくるんでやらないんだい?」
「童は凍えちまったんでさ、着物が凍っちまいましてね、暖まらねえんですよ」
「どうしてそんなことが? なぜだい?」
愚かな「ミーチャ」はそれでも引き下がりません。
「貧乏なうえに、焼けだされましてね、一片のパンもないんでさ。ああしてお恵みを乞うてますんで」
「いや、そのことじゃないんだ」
「ミーチャ」はそれでもまだ納得できぬかのようです。
「教えてくれよ。なぜ焼けだされた母親たちがああして立っているんだい。なぜあの人たちは貧乏なんだ。なぜ童はあんなにかわいそうなんだ。なぜこんな裸の曠野があるんだ。どうしてあの女たちは抱き合って接吻を交わさないんだ。なぜ喜びの歌をうたわないんだ。なぜ不幸な災難のために、あんなにどすぐろくなってしまったんだ。なぜ童に乳をやらないんだ?」
殺伐とした「ドミートリイ」の夢は彼の心象風景とあらわしていると思います、軍人として各地を回ったときにこのような貧しい人々を見ていろいろと考えるところがあったのでしょうか、そして作者はこの記述については何らかの意図があったのでしょうか。
ずっと先ですが(935)で「ドミートリイ」は「アリョーシャ」に再び《童(わらし)》の話をします。
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