「コーリャ」が小学校に入り、さらにこの町の新制中学(訳注 一八六四年の改革で新たに創設された四年制中学。小学校は三年制。普通の中学は八年制で、この新制中学を終えたあと、さらに進学を希望する者は、普通中学の相当学年に入れた。)に通うようになると、彼女は勉強の手伝いや、いっしょに予習復習をしてやれるように、あらゆる学課を息子といっしょに猛然と勉強しはじめ、すぐさま教師やその細君たちと近づきになり、「コーリャ」をいじめたり、からかったり、ぶったりせぬよう、機嫌をとり結びにかかりました。
このころの歴史をネットで調べると、1861年2月19日(3月5日)に農奴解放令が公布され、都市労働者(プロレタリアート)が供給され、工業が活性化し、ブルジョワジー階級が増加してロシアの資本主義経済が加速されます、アレクサンドル2世の思惑と異なり、農奴解放令によって逆に社会矛盾が激化することになり、革命の緊張は緩和されませんでした、アレクサンドル2世はヨーロッパ・ロシア34県とこれに属する郡に代議制議会を持つゼムストヴォ(地方自治機関)を設置する地方行政改革を行い、さらに司法改革、教育改革そして軍制改革をも実施しており、農奴解放を含めたこれら一連の改革は「大改革」と呼ばれています、(45)で「イワン」の論文に関して1864年の裁判制度改革のことが出てきています。
それが度をすごしたため、ついには本当に子供たちは母親のことで彼をばかにするようになり、お母さん子だと言って、からかいはじめました。
今も昔もよくあることですね。
しかし、「コーリャ」少年は自分を守りぬいてみせました。
彼は勇敢な少年で、クラスじゅうに噂が広まってすぐに定評となったとおり、《おそろしく強いやつ》で、敏捷で、一途な気性で、大胆で、実行力に富んでいました。
成績もよく、数学や世界史なら先生の「ダルダネーロフ」をも負かすだろうという評判さえありました。
勉強と体力の両方が優れていると子供の世界では英雄になれますね。
しかし、少年は得意顔でみんなを見下してはいたものの、友達としては実に立派で、高慢風を吹かすことがありませんでした。
級友たちの尊敬を当然のこととして受けはしましたが、友情にみちた態度を保ちつづけていました。
いちばん肝心なのは、節度をわきまえていることで、場合によっては自分を抑えることもできたし、学校当局に対しても、それを越えたら最後はもはや過失ではすまされなくなって無秩序や、反乱や、不法行為となってしまう、あの最後のぎりぎりの一線を、決して踏みこえはしませんでした。
が、それでも、しかるべき機会さえあれば、いたずらをやってのけるのは大好きで、どうにも手のつけられぬ餓鬼大将のようないたずらをやってのけるのですが、単なるいたずらというよりも、むしろ、ことさらむずかしいことを言ってみたり、とっぴな振舞いをしたり、《胸のすくような仕返し》をしたり、カッコいいことをしたり、いいところを見せたりするのでした。
何よりも、彼はたいそう自尊心が強いのでした。
母親まで目下のような立場に置き、ほとんど暴君のように振舞っていました。
母親も言うなりになっていました。
そう、もう永年言いなりになってきたのです。
ただ、彼女がなんとしても堪えられなかったのは、少年が《あまり愛してくれない》のではないかという思いだけでした。
のべつ「コーリャ」が《冷淡》なように思えて、ヒステリックな涙を流しながら、息子の冷淡さを難じはじめるような場合もしばしばありました。
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