少年はそれがきらいで、まごころの吐露を求められれば求められるほど、まるでいやがらせのように意固地になっていきました。
しかし、わざとそうするわけではなく、知らぬ間になってしまうので、それが性格でした。
へんな翻訳ですが、「それが性格」というのは何をさしているのでしょうか。
母親は誤解していました。
少年は母をとても愛していたのですが、学校言葉で表現したように、《べたべたした愛情》がきらいなだけだったのです。
「学校言葉で表現したように」とは「お母さん子」でしょうか。
父の死後、多少の蔵書の入った書棚が残されました。
「コーリャ」は読書好きで、もうそのうちの何冊かを内緒で読んでしまっていました。
母親はそのことでべつに当惑したりせず、ただときおり、どうして男の子なのに外へ遊びに行こうとせず、まる何時間も書棚のわきに立ちどおしで何かの本を読みふけっているのだろうと、ふしぎがるだけでした。
こうして「コーリャ」は、彼の年ごろではまだ読ませてもらえぬようなものも、何やかや読み終えていました。
もっとも、少年はいたずらでも一定の線を越えることを好かなかったはずなのに、最近では母親を本気で怯えさせるようないたずらをはじめました。
なるほど、べつに不道徳ないたずらではなかったにせよ、その代り、向う見ずな無鉄砲なものでした。
たまたまその夏、七月の休暇に、母親が息子を連れて、七十キロほど離れた隣の郡の、さる遠い親戚の婦人のところへ、一週間ばかりの予定で遊びに行ったことがありました。
その婦人の夫は鉄道の駅に勤めていました(それはこの町からいちばん近い駅で、一カ月後イワン・カラマーゾフはここからモスクワへ向って立ったのである)。
先方へつくと、「コーリャ」はまず、わが家に帰ってから学校友達の間で新知識をひけらかすことができるのをさとったため、さっそく鉄道を詳細にしらべて、列車ダイヤをおぼえこみました。
1866年に皇帝暗殺未遂事件(カラコーゾフ事件)が起こっています、「カラコーゾフ事件」とは、「1866年4月4日,ロシア皇帝アレクサンドル2世が狙撃された事件。カラコーゾフは,サラトフ県の没落貴族の家庭に生まれ,カザン大学入学後退学処分を受け,2年後復学したがモスクワ大学に転じ,1865年秋にはここも退学となった。同地で学生運動を基盤とする,いとこイシューティンの率いる結社〈組織〉に加入。行動方針をめぐり結社は分裂し,カラコーゾフは政治テロを標榜した〈地獄〉へ参加し,皇帝暗殺のテロリズムへと傾斜していった。」とのこと、ドストエフスキーはこの事件に着想を得てこの小説を書いたとも言われていますので、この「コーリャ」の鉄道のくだりは、幻の第二部で書かかれる予定であったとも言われる鉄道爆破による皇帝暗殺のことが頭に浮かびます。
ところが、ちょうどそのころ、ほかにも何人か少年が来ており、彼は親しくなりました。
少年たちの何人かは駅舎に寝泊まりしており、他の者は近所に宿をとっていました。
十二から十五くらいの少年ばかり、全部で六、七人が顔を合わせ、しかもその中にはたまたまこの町の少年も二人いました。
少年たちはいっしょに遊んだり、いたずらしたりしていましたが、駅舎の滞在の四、五日目には無分別な少年たちの間で、およそ信じられぬような二ルーブルの賭が成立しました。
ほかでもない、みなの中でいちばん年下にひとしいため、年上の少年たちからいくぶん見くびられていた「コーリャ」が、自尊心からか、あるいは無鉄砲な勇気からか、夜、十一時の列車が通るときに、レールの間にうつ伏せに寝て、汽車が頭上を全速力で通りすぎる間、身動きせずに寝ていてみせる、と申し出たのです。
たしかに、あらかじめ研究して、事実レールの間に身をのばし、ぴったり伏せていれば、もちろん列車はそのまま通過し、寝ている者にかすり傷一つ負わせぬはずであることはわかっていましたが、それにしても、どうしてずっと伏せていられようか!
「コーリャ」は寝ていてみせると、固く言い張りました。
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