これは「カテリーナ」が大金を投じてわざわざモスクワからよびよせ、招いた医者でした。
と言っても、「イリューシャ」のためにではなく、いずれあとでしかるべき場所で述べる別の目的のためにでしたが、せっかく来た以上、「イリューシャ」も診察してくれるよう彼女が頼んだもので、そのことは二等大尉もあらかじめ知らされていました。
この医者は、誰か他の人を看るために呼んだので、それはわたしも以前読んだので誰なのか憶えてはいるのですが、多くの中心的な登場人物がこの医者のことでうまく繋がっているのが見事だと思います。
「コーリャ・クラソートキン」の来訪に関しては、もうだいぶ前から、「イリューシャ」がこれほど気に病んでいるこの少年が来てくれることを心待ちにしていたとはいうものの、まったく予想もしていませんでした。
「コーリャ」がドアを開けて、部屋に姿をあらわしたその瞬間、二等大尉と少年たちはみんなして、病人のベッドのまわりに集まり、今しがた連れてきたちっぽけなマスチフの子犬の品定めをしているところでした。
子犬は昨日生れたばかりでしたが、姿を消してしまってもちろんもう死んだにちがいない「ジューチカ」のことをたえず嘆いている「イリューシャ」の気を晴らし、慰めるために、もう一週間も前から二等大尉が注文していたのです。
注文していたということは、お金を出して買ったということですね、次の文章に書かれているように「れっきとしたマスチフ」とのことですので、それなりの値段でしょうし、餌台もかかるでしょうし、大きくなったら誰が世話するのでしょう、そんなことは二等大尉は考えておらず、ただ今この場で、息子を慰めるために用意したのでしょう、しかもそれで息子が実際に喜ぶのかもわからないと思いますが。
しかし、小さな子犬を、それもただの子犬ではなく、れっきとしたマスチフを(もちろん、これはひどく大事なことだった)、もらえることをすでに三日も前からきかされて知っていた「イリューシャ」は、繊細なデリケートな心づかいから、この贈り物を喜んでいるような顔をしてみせたものの、父親も少年たちもみな、新しい子犬がことによると、少年に苦しめられたかわいそうな「ジューチカ」の思い出を、小さな心の中でいっそうはげしく揺さぶったにすぎぬかもしれないことを、はっきりと見てとりました。
子犬は彼のそばに寝て、もぞもぞ動いており、彼も病弱な微笑をうかべながら、細い青白い、痩せこけた手で撫でてやっていました。
どうやら子犬が気に入ったようにさえ見受けられました。
作者は、あえて「気に入ったようにさえ見受けられました」と微妙な書き方をしています。
しかし・・・・やはり「ジューチカ」はいませんでした。
やはりこれは「ジューチカ」ではありません。
もし「ジューチカ」とこの子犬がいっしょにいるのだったら、そのときこそまったく幸せだったろうに!
「クラソートキンだ!」
少年の一人が、入ってきた「コーリャ」に最初気づいて、突然叫びました。
傍目にもわかるほどの動揺が起り、少年たちは左右にしりぞいて、ベッドの両側に立ったので、ふいに「イリューシャ」の姿がすっかりあらわれました。
映画のワンシーンのように目に浮かぶ光景です。
二等大尉は「コーリャ」を出迎えにあたふたと走りました。
「さ、さ、どうぞ、どうぞこちらへ・・・・大事なお客さま!」
彼は舌足らずな口調で言いました。
「イリューシャ、クラソートキンさんがお見えになったよ!」
しかし、「クラソートキン」はすばやく握手を求めて、社交の礼儀に対する並々ならぬ知識を一瞬のうちに示しました。
それからすぐ、何よりもまず肘掛椅子に坐っている二等大尉夫人の方に向き直り(ちょうどこのとき、夫人はご機嫌ななめで、少年たちが「イリューシャ」のベッドの前に立ちふさがって、新しい子犬を見せてくれないと、不平を鳴らしていたところだった)、靴の踵をかちんと打ち合せてきわめて丁寧におじぎし、さらに「ニーノチカ」の方に向き直って、上流婦人に対するようなおじぎをしました。
このいんぎんな振舞いが、病身の夫人にきわめて好もしい印象を与えました。
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