2018年9月19日水曜日

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七 イリューシャ

医者が小屋から出てきたときには、すでにまた毛皮外套にくるまり、帽子をかぶっていました。

ほとんど、怒ったような、うとましげな顔をしており、まるで何かにさわって汚れはせぬかと、のべつ心配しているみたいでした。

彼はちらと玄関を見まわし、そのついでに「アリョーシャ」と「コーリャ」をきびしく眺めました。

「アリョーシャ」が戸口から手を振って馭者に合図し、医者を乗せてきた箱馬車が出口の方に近づいてきました。

二等大尉が医者のあとから大急ぎでとびだしてきて、ほとんど媚びへつらわんばかりに腰を折り曲げ、最後の一言をきくために医者を押しとどめました。

この哀れな男の顔は悲しみに打ちひしがれ、眼差しは怯えきっていました。

「閣下、閣下・・・・まさか?」

彼は言いかけましたが、みなまで言えず、絶望して両手を打ち合せただけでしたが、それでもなお、まるで医者のこの一言で哀れな少年に対する宣告が本当に変りうるかのように、最後の祈りをこめて医者を見つめていました。

「仕方がありませんな。わたしも神さまじゃないんですから」

習慣的な教えさとすような声でこそありましたが、ぞんざいに医者が答えました。

「先生・・・・閣下・・・・そんなに早くですか、もうすぐに?」

「あらゆる事態に、そなえて、おかれる、ことですな」

一音節ごとに区切ってアクセントをつけながら、医者が言い、目を伏せて、馬車に向うため敷居をまたごうとしかけました。

「閣下、おねがいでございます!」

二等大尉がぎょっとして再度引きとめました。

「閣下!・・・・それでは本当にもう、ほんとうに何一つ、今となっては救う手は何一つございませんので?」

「今となっては、わたしの手には負えません」

医者がじれったそうに言い放ちました。

「もっとも、うん」

ふいに彼は足をとめました。

「かりに、たとえば・・・・あの患者を・・・・今すぐ一刻の猶予もなく(この『今すぐ一刻の猶予もなく』という言葉を、医者はきびしいというより、ほとんど怒ったように言ったため、二等大尉はびくりとふるえたほどだった)、シラクサにでも、転地できるとしたら・・・・新しい温暖な気候条件のおかげで・・・・あるいは、ひょっとすると・・・・」

「シラクサですって!」

どうして「シラクサ」なんでしょう、「シラクサ」は「イタリア共和国のシチリア島南東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約12万人の基礎自治体(コムーネ)。シラクサ県の県都である。標準イタリア語の発音に近い表記は「シラクーザ」。古代ギリシャの植民都市シュラクサイに起源を持つ都市で、歴史的な遺跡など、多くの観光スポットがある。2005年には市内および周辺の歴史的建造物や遺跡が「シラクサとパンターリカの岩壁墓地遺跡」の名で世界遺産に登録もされている。」とのことで、「アルキメデス」の出身地、アポロ神殿があり、太宰治の『走れメロス』舞台だそうです。

二等大尉は、まだ何も理解できぬかのように、叫びました。

「シラクサというのは、シシリー島にあるんですよ」

だしぬけに「コーリャ」が、説明のために大声でずけずけと言いました。

医者は彼を眺めやりました。

「シシリー島なんて! とんでもございません、閣下」

二等大尉は呆然となりました。

「なにせ、ごらんのとおりの有様で!」

彼は両手をぐるりとまわして、自分の生活環境を示しました。

「それに、かあちゃんや、家族の者は?」


「いや、家族はシシリーではない。家族はコーカサスへやるんだね、春先にでも・・・・娘さんはコーカサスだ。それから奥さんも・・・・リューマチがあるから、やはりコーカサスで温泉療法をやって・・・・そのあとすぐパリへやりなさい。精神科のレ・ペル・シーチエ先生の病院へね。わたしが紹介状を書いてもいいですよ、そうすれば・・・・あるいは、ひょっとすると・・・・」


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