「まあ、それもいいことですよ」
「アリョーシャ」は言いました。
神さまに近い位置にいる「アリョーシャ」がそう言うとは、その真意は何でしょうか。
「神さまが気の毒ってことがか? 化学だよ、お前、化学さ! 仕方がないよ、神父さん、少々おつめをねがいます、化学さまのお通りですから、ってわけだ! ところでラキーチンは神さまぎらいだな、大きらいなんだぜ! これがあいつらみんなの弱い点だよ! でも、隠してやがるんだ。嘘をついてやがる。芝居してやがるのさ。『どうなんだい、評論の分野でもこれを貫く気かい?』って俺がきいたら、『そりゃ、露骨には出さないさ』なんて言って、笑ってやがるんだ。『ただ、そうなったら、人間はどうなるんだい? 神さまも来世もなけりゃさ? とすると、今度はすべて許されるんだな、何をしてもいいってわけか?』と俺はきいてみた。するとあいつは、『君は知らなかったのか?』なんて笑うじゃねえか。『利口な人間は何でもできるさ、利口な人間は抜目なく立ちまわるからな。ところが君なんざ、人を殺して、パクられて、牢屋の中で朽ち果てるんだ!』この俺にこんなことを言いやがるんだぜ。まったくの豚野郎さ! 昔だったらあんな野郎はつまみだしてやるんだが、今だからおとなしくきいてやってるんだ。いろいろ役に立つことをしゃべるからな。書くものだって、気がきいてるぜ。一週間ほど前に、ある評論を読みはじめたから、そのときわざわざ三行ばかり書きぬいておいたよ。待ってくれよ、ほら、これだ」
「ドミートリイ」の言っていることは、わかりやすいですね、ここで「ラキーチン」が「利口な人間は何でもできるさ、利口な人間は抜目なく立ちまわるからな。・・・・」と言っていますが、これは前に(932)で「・・・・しかし、利口な男さ、頭はいいよ。」と(933)の「・・・・どいつもこいつも卑劣漢ばかりさ。しかし、ラキーチンなら、すりぬけるだろうよ。ラキーチンはどんな隙間でもくぐりぬけるからな。」と言っていたことに対応しますね。
「ミーチャ」はそそくさとチョッキのポケットから紙片を取りだし、読みました。
「『この問題を解決するには、何よりもまず自己の人格を自己の現実と真向から対決させることが必要である』だとさ。わかるかい、え?」
「いいえ、わかりませんね」
「アリョーシャ」は言いました。
彼は好奇心をみせて「ミーチャ」の手もとをのぞきこみ、話をきいていました。
「俺にもわからないんだ。漠然としていてはっきりしないけど、その代り利口そうじゃないか。『今はだれもがこういうふうに書くんだよ、そういう環境だからね』だとさ・・・・あいつらは環境がこわいんだな。詩も書くんだぜ、あの卑劣漢め。ホフラコワの足をたたえてやがったっけ、は、は、は!」
「漠然としていてはっきりしないけど、その代り利口そうじゃないか。」というのは面白いです。
「僕もききましたよ」
「アリョーシャ」は言いました。
「聞いた? じゃ、詩もきいたか?」
「いいえ」
(920)で「ホフラコワ夫人」はうろ覚えで詩の内容を「小さな足よ、かわいい足よ、わずかに腫れて痛みだす・・・・」と話していました、そして「アリョーシャ」に後で全部を見せると言っていましたがそれはそのままになっています、しかし、この後「ドミートリイ」が「アリョーシャ」に読んで聞かせた詩の本文と「ホフラコワ夫人」の記憶とはかなり違いますが。
「俺のところにあるから、読んでやるよ。お前には話さなかったから、知らないだろうけど、ここには一編の物語があるんだよ。あの悪党め! 三週間ばかり前に、あいつは俺をからかおうと思ってさ、『君は三千ルーブルのために、ばかみたいにパクられたけど、僕は十五万ルーブルをがっぽりいただくつもりだよ。さる未亡人と結婚して、ペテルブルグに石造のアパートでも買うさ』なんて言うんだ。そして、ホフラコワ夫人に取り入ってる話をするんだよ。あの女は若いころから利口なほうじゃなかったけれど、四十に近くなったら、すっかり頭がいかれたからな。『ひどくセンチだからな、そこをねらって射止めるさ。結婚したら、ペテルブルグに連れて行って、向うで新聞を出すんだ』こう言いながら、実にいやらしい、助平たらしいよだれを垂らすじゃないか。それもホフラコワ夫人に対するよだれじゃなく、十五万ルーブルが目当てなんだからな。そして、毎日のようにここへ来ては、もうなびきそうだなんて言い張ってたもんさ。喜びに顔をかがやかせてな。それが突然、おはらい箱だ。あのペルホーチンが勝負をいただきたってわけだ、あっぱれなやつだよ! つまり、あいつをおはらい箱にしてくれた褒美に、あのばか女にたっぷりキスをしてやってもいい、ってわけさ。あいつがここへせっせと来てた当時、この詩を作ったんだよ。『はじめて手を汚して、詩なんぞ書くんだ。それも女を口説きおとすためにね、つまり、有益な仕事のためだよ。あのばか女から元手をかっさらたら、今度は市民的利益をもたらすことができるからね』なんて言ってな。あいつらには、どんな汚ない行為にも、市民的弁解とやらがあるんだからな! 『とにかく君の好きなプーシキンより上手に書いだぜ、だっておどけた詩に市民的な哀感をもりこむことができたからね』だとさ。そりゃ、プーシキンに関して言ったことは、俺にもわかるよ。だってさ、本当に才能のある人間なら、女の足のことばかり書くはずがないものな! それにしても、たいそうこの詩を自慢しやがったぜ! たいしたうぬぼれだよ、うぬぼれさ! 『わが思う人の痛む足の回復をねがって』こんな表題を思いつきやがったもんだ。とっぽい野郎さ!
小さな足よ、気の毒に、
わずかに腫れたあの足よ、
医者が治療に通いつめ、
繃帯ぶざまに巻きつける。
僕の嘆きは足じゃない、
足を詠むのはプーシキン、
僕の嘆きはあの頭、
思想を解さぬあの頭。
少しわかろうとしかけたに
小さな足が邪魔をした!
癒っておくれ、小さな足よ、
頭が思想を解するように。
豚野郎め、まったくの豚さ。それでも、あの下種(げす)にしちゃ、ひょうきんな出来ばえだよ! それに事実《市民的悲哀》とやらも、もりこんであるしな。しかし、おはらい箱にされたときには、すごく怒ったようだぜ。歯ぎしりしたとよ!」
長い「ドミートリイ」の会話ですが、いろいろなことが盛り込まれています、特に「ラキーチン」の俗物ぶりは見事に描かれていますね。
「もう仕返しをしましたよ」
「アリョーシャ」は言いました。
「ホフラコワ夫人のことを記事に書きましたからね」
そして「アリョーシャ」は、『人の噂』紙の記事のことを、手短かに話しました。
「それはあいつさ、あいつだよ!」
「ミーチャ」は眉をひそめて相槌を打ちました。
「それはあいつだ! そういう記事はな・・・・俺だって知ってるさ・・・・つまり、そういう下品な記事がこれまでにもう、どれほど書かれたかわからないからな、たとえばグルーシェニカのことにしてもさ! それから、あの人、つまりカーチャのこともさ・・・・ふむ!」
考えてみれば「ドミートリイ」は自分の公判があしたに控えているというのに、こんなことで「ふむ!」なんて言っている場合じゃないと思いますが。
彼は気がかりそうな様子で部屋の中を歩きまわりました。
「兄さん、僕はゆっくりしてられないんです」
ちょっと沈黙したあとで、「アリョーシャ」が言いました。
「明日は兄さんにとって恐ろしいたいへんな日なんですよ。神の裁きが兄さんに下るんです・・・・それなのに、兄さんときたら、やたらに歩きまわったり、用件そっちのけで下らない話をしたり、まったく呆れちまうな」
よく言ってくれましたという気持です、さっき私が思ったことと同じことを「アリョーシャ」が言ってくれました。
「いや、呆れることはないさ」
「ミーチャ」がむきになってさえぎりました。
「それじゃ、あのいやなにおいをさせる犬畜生のことでも話せというのかい? あの人殺しのことでも? そのことなら、もうさんざ話したじゃないか。これ以上、あんないやなにおいをさせるスメルジャーシチャヤの忰(せがれ)の話なんぞ、ごめんだね。あんなやつは神さまが殺してくれるさ、今に見てろ。もう何も言うな!」
彼は興奮して「アリョーシャ」に歩みよると、いきなり接吻しました。
その目が燃えはじめました。
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