2018年10月22日月曜日

935

「ラキーチンにはこんなことわかりゃしないが」

まるで何かに感激したように、彼は話しだしました。

「しかし、お前ならすっかりわかってくれるはずだ。だからこそ、お前を待ちわびていたんだよ。実はな、俺はずっと前から、漆喰の剥げたこの壁の中でお前にいろいろ話したいと思っていながら、いちばん肝心なことは黙っていたんだ。まだその時期じゃないような気がしたもんだからね。でもとうとう、お前に真情を吐露するぎりぎりのときになってしまった。あのな、俺はこのふた月の間に、自分の中に新しい人間を感じとったんだよ。新しい人間が俺の内部によみがえったんだ! 俺の内部にもともと閉じこめられていたんだけど、今度の打撃がなかったら、決して姿を現わさなかっただろうよ。恐ろしいことだ! だから、鉱山で二十年間つるはしをふるって鉱石を掘るなんてことは、今の俺にとっては何でもない。そんなことは全然恐れていないよ。今の俺にとって恐ろしいのは別のことだ。つまり、せっかくよみがえった人間が俺から離れて行きゃしないかってことさ! 向うに行っても、鉱山の地底でだって自分の隣にいる、同じような人殺しの流刑囚の中に人間らしい心を見つけて、仲良くしてくことはできる。なぜって、向うでだって生活することもできるし、愛することも、悩むこともできるんだからな! そんな流刑囚の内に凍てついた心を生き返らせ、よみがえらせることもできるし、何年もの間その心を大切に育てて、最後に高潔な心を、殉教者の自覚を洞穴の奥から明るみにひきだして、天使を生き返らせ、英雄をよみがえらせることもできるんだ! そういう人たちは大勢いる、何百人もいる、そして俺たちはみんな、その人たちに対して罪があるんだよ! なぜあのとき、あんな瞬間に、俺が《童(わらし)》の夢を見たんだ? 『なぜ童はみじめなんだ?』これはあの瞬間、俺にとって予言だったんだよ! 俺は《童》のために行くのさ。なぜって、われわれはみんな、すべての人に対して罪があるんだからな。すべての《童》に対してな。なぜって、小さい子供もあれば、大きな子供もいるからさ。人間はみな、《童》なんだよ。俺はみんなの代りに行くんだ。だって、だれかがみんなの代りに行かなけりゃならないじゃないか。俺は親父を殺しやしないけど、それでも俺は行かねばならないんだ。引き受けるとも! この考えはみな、ここで生まれたんだよ・・・・漆喰の剥げたこの壁の中でさ。しかも、そういう人間は大勢いる。つるはしを手にした地底の人間は、何百人もいるんだ。そう、俺たちは鎖につながれ、自由はなくなる。だが、深い悲しみにとざされたそのときこそ、俺たちはまた喜びの中に復活するんだ。その喜びなしに人間は生きていかれないし、神は存在していかれない。なぜって、神がその喜びを与えてくれるんだからな、これは神の偉大な特権なんだ・・・・ああ、人間は祈りの中で溶けてしまうがいい! あの地底で、神なしに俺はどうしていけるというんだ? ラキーチンのやつはでたらめばかりぬかしやがる。もしこの地上から神を追い払ったら、俺たちが地底でその神にめぐりあうさ! 流刑囚は神なしには生きていかれないからな、流刑囚じゃない人間より、いっそう不可能だよ! そしてそのときこそ、俺たち地底の人間は、喜びをつかさどる神への悲劇的な讃歌を、大地の底からうたうんだ! 神とその喜びよ、万歳! 俺は神を愛してるんだ!」


これはまだ「ドミートリイ」の発言の途中ではありますが、前にモークロエでの尋問の途中で、「ドミートリイ」が奇妙な夢を見たことが(841)で書かれています、その夢は、「彼は何やら奇妙な夢を見ました。この場所にも今の場合にもまったくそぐわぬ夢でした。彼はどこか曠野を馬車で走っています。ずっと以前に勤務していた土地です。みぞれの降る中を、二頭立ての荷馬車で百姓が彼を運んでゆきます。十一月初め、「ミーチャ」は寒いような気がします。びしょびしょした大粒の雪が降っており、地面に落ちると、すぐに融けます。百姓は鞭さばきも鮮やかに、威勢よく走らせます。栗色の長い顎ひげをたくわえていますが、老人というわけではなく、五十くらいでしょうか、灰色の百姓用の皮外套を着ています。と、近くに部落があり、黒い、ひどく真っ黒けな百姓家が何軒も見えます。ところが、それらの百姓家の半分くらいは焼失して、黒焦げの柱だけが突っ立っているのです。部落の入口の道ばたに女たちが、大勢の百姓女たちがずっと一列にならんでおり、どれもみな痩せおとろえて、何やら土気色の顔ばかりです。特に、いちばん端にいる背の高い、骨張った女は、四十くらいに見えるが、あるいはやっと二十歳くらいかもしれません。痩せた長い顔の女で、腕の中で赤ん坊が泣き叫んでいます。おそらく彼女の乳房はすっかりしなびて、一滴の乳も出さないのでしょう。赤ん坊はむずかり、泣き叫んで、寒さのためにすっかり紫色になった小さな手を、固く握りしめてさしのべています。「何を泣いているんだい? どうして泣いているんだ?」彼らのわきを勢いよく走りぬけながら、「ミーチャ」はたずねます。「童でさ」馭者が答えます。「童が泣いてますんで」馭者がお国訛りの百姓言葉で、子供と言わずに《童》と言ったことが、「ミーチャ」を感動させます。百姓が童と言ったのが彼の気に入ります。いっそう哀れを催すような気がするのです。「でも、どうして泣いているんだい?」「ミーチャ」はばかみたいに、しつこくだずねます。「なぜ手をむきだしにしているんだ、どうしてくるんでやらないんだい?」「童は凍えちまったんでさ、着物が凍っちまいましてね、暖まらねえんですよ」「どうしてそんなことが? なぜだい?」愚かな「ミーチャ」はそれでも引き下がりません。「貧乏なうえに、焼けだされましてね、一片のパンもないんでさ。ああしてお恵みを乞うてますんで」「いや、そのことじゃないんだ」「ミーチャ」はそれでもまだ納得できぬかのようです。「教えてくれよ。なぜ焼けだされた母親たちがああして立っているんだい。なぜあの人たちは貧乏なんだ。なぜ童はあんなにかわいそうなんだ。なぜこんな裸の曠野があるんだ。どうしてあの女たちは抱き合って接吻を交わさないんだ。なぜ喜びの歌をうたわないんだ。なぜ不幸な災難のために、あんなにどすぐろくなってしまったんだ。なぜ童に乳をやらないんだ?」そして彼は、たしかにこれは気違いじみた、わけのわからぬきき方にはちがいないが、自分はぜひともこういうきき方をしたい、ぜひこうきかねばならないのだと、ひそかに感じています。さらにまた、いまだかつてなかったようなある種の感動が心に湧き起り、泣きたくなるのを感じます。もう二度と童が泣いたりせぬよう、乳房のしなびた真っ黒けな童の母親が泣かなくてもすむよう、今この瞬間からもはやだれの目にもまったく涙なぞ見られぬようにするため、今すぐ、何が何でも、カラマーゾフ流の強引さで、あとに延ばしたりすることなく今すぐに、みんなのために何かしてやりたくてなりません。「あたしもいっしょよ。これからはあなたを見棄てはしない。一生あなたといっしょに行くわ」感情のこもったやさしい「グルーシェニカ」の言葉が、すぐ耳もとできこえます。とたんに心が燃えあがり、何かの光をめざして突きすすみます。生きていたい、生きていたい、よび招くその新しい光に向って、何らかの道をどこまでも歩きつづけて行きたい、それもなるべく早く、一刻も早く、今すぐに、たった今からだ!」と、そして(913)で《童》ことが再び出てきました、「グルーシェニカ」が「アリョーシャ」に話したのでした、つまり「「ねえ、アリョーシャ、あたしだいぶ前からこのことをあなたに言おうと思っていたの。毎日、面会に行ってるけど、ふしぎでならないのよ。ねえ、教えて、あなたはどう思うの。あの人がこのごろしきりに言いはじめたのは、何のことかしら? すぐにその話をはじめるんだけど、あたしにはさっぱりわからないわ。何かむずかしい話をしてるんだろうけど、あたしは頭がわるいから、わかるはずないと、そう思っているのよ。ただ、だしぬけに、童(わらし)のことを、つまり、どこか田舎の子供のことを話すようになって、『なぜ童はみじめなんだ?』だとか、『俺は今、童のためにシベリヤへ行くんだ。殺しなんぞしていないけど、俺はシベリヤへ行かなければいけないんだ』だとかって言うのよ。これは何のこと、どこの童のこと、あたしには全然わからなかったわ。ただ、あの人がその話をしたとき、あたし泣いていまったわ。だって、とっても上手に話して、自分から泣くんですもの、あたしまで泣けちゃった。そしたらあの人、突然あたしにキスして、片手で十字を切ってくれたわ。これはどういうこと、アリョーシャ、《童》って何のことか教えて」と、しかし「アリョーシャ」はそれに答えてはいません、これは「ドミートリイ」が「いちばん肝心なこと」でぜひとも「アリョーシャ」に伝えたかったと言っていますが、どういうことなのでしょうか、私なりにまとめてみると、「われわれはみんな、すべての人に対して罪がある」ということであり、そして肝心なのは、神とともに苦役を受けつるはしをふるっている人間は大勢いるということを理解したということではないかと思います、しかしここで神性に目覚めたような「ドミートリイ」の心情について、私はまだ残念ながら理解することができません。


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