この奇怪な演説をしながら、「ミーチャ」はほとんど息をあえがせていました。
顔色は青ざめ、唇はふるえ、目からは大粒の涙がこぼれていました。
「いや、生活は充実している。地底にも生活はあるんだ!」
彼はふたたび語りはじめました。
「アリョーシャ、俺が今どんなに生きたいと望んでいるか、お前には信じられんだろう。生存し、認識したいというどんなに熱烈な欲求が、ほかならぬ漆喰の剥げたこの壁の中で、俺の心に生まれたことだろう! ラキーチンにはこんなことはわかりゃしない。あいつはアパートでも建てて、間借り人を入れさえすりゃいいんだからな。だけど俺はお前を待っていたんだ。それに、苦しみとはいったい何だい? 俺は、たとえ苦しみが数限りなくあったとしても、そんなものは恐れないよ。以前はこわかったけど、今ならこわくない。あのな、ひょっとすると、俺は法廷で何も答えないかもしれないぜ・・・・今や俺の内にはそうした力が十分にあるような気がするんだ。だから、たえず『俺は存在している!』と自分自身に言い、語れさえするなら、俺はどんなことにでも、どんな苦しみにでも打ち克ってみせるよ。数知れぬ苦痛を受けても、俺は存在する。拷問にのたうちまわっても、俺は存在する! 柱にくくられてさらしものになっても、俺は存在するし、太陽を見ているんだ。太陽が見えなくたって、太陽の存在することは知っている、太陽の存在を知っているってことは、それだけでもう全生命なんだよ。アリョーシャ、俺の天使、俺はもういろいろな哲学に殺されそうだよ、畜生! イワンのやつが・・・・」
「ドミートリイ」のこの発言は大変なことを話していると私は思います、つまり、自分はどんなにひどい苦痛を受けたとしても、それを受け入れるという覚悟です、しかも彼は明日からの裁判で自分が父を殺していないと主張するか、もしくは殺意を否定することによって無罪になるかもしれないという可能性があるにもかかわらず、それをしないで、自ら有罪の道を選ぼうとしているのです、彼自ら苦役の道を選び、それに耐え抜く覚悟をすることが、自分の存在の証であり、それは「全生命である太陽」があるからだと言っています、このようなある覚悟の状態は「さもありなん」と、恐らく一般的には観念上のものとして浅く理解されがちなことだと思いますが、ある極限的な状況に置かれた一部の人間にとっては、これに類することは身をもって経験しているのではないかと思います、これは普通の生活の延長上では理解しがたいことではありますが、経験すると自分でも自分に驚かされるようなことです。
「イワン兄さんが何ですって?」
「アリョーシャ」は口をはさみかけましたが、「ミーチャ」の耳には入りませんでした。
「いや、俺は今までこういう疑念は全然持たなかったんだけど、すべて俺の内部にひそんでいたんだな。きっと、さまざまの未知の思想が俺の内部で荒れ狂っていたために、俺は飲んだくれたり、喧嘩をしたり、気違い沙汰をやらかしたりしていたんだよ。自分の内部のそういう思想を鎮めるために、俺は喧嘩をしたんだ。そいつを鎮め、押さえつけるためにさ。イワンはラキーチンとは違う。あいつは思想を隠しているからな。イワンはスフィンクスだよ、むっつり黙っているんだ。ところで、俺を苦しめるのは神だよ。それだけが俺を苦しめるんだ。神がなかったら、どうだろう? そんなものは人間が作った人工的な観念だなんていうラキーチンの説が正しかったら、どうなるだろう? もし神がいなければ、そのときはこの地上の、この宇宙のボスは人間じゃないか。結構なこった! ただ、神がいないと、どうやって人間は善人になれるんだい? そこが問題だよ! 俺はいつもこのことばかり考えているのさ。だって、そうなったら、人間はだれを愛するようになるんだい? だれに感謝し、だれに讃歌をうたえばいいんだい? ラキーチンは笑いやがるんだ。ラキーチンは、神がいなくたって人類を愛することはできる、なんて言うんだ。しかし、そんなことを言い張れるのは洟たれ小僧だけで、俺は理解できんね。ラキーチンなら、生きてゆくのはたやすいことさ。今日だって俺にこう言いやがったぜ。『そんなことより、市民権の拡張のために奔走するほうが利口だぜ、さもなけりゃ、せめて牛肉の値段が上がらないようにでもな。哲学なんぞより、そのほうが手っ取り早く簡単に人類に愛情を示せるからね』だから俺もお返しにこう言ってやったよ。『神がいなけりゃ、そういう自分がまず手当りしだい牛肉の値をつりあげて、一カペイカ分で一ルーブルも儲けるくせに』あいつ怒ったぜ。だって、善行とはいったい何だい? 教えてくれよ、アレクセイ。俺には俺の善行があるし、支那人にはまた別の善行がある。とすれば、つまり、相対的なものなんだな。違うかい? 相対的じゃないのかね? ややこしい問題だぜ! この問題で俺がふた晩眠れなかったと言っても、笑わないでくれよ。今の俺には、世間の連中が平気で生きていて、この問題を何一つ考えないのが、ふしぎでならないんだよ。むなしいもんさ! イワンには神がない。あいつには思想があるからな。それも俺なんかとは規模が違うやつさ。それでも黙っているんだ。あいつはフリーメイソンだと思うよ。きいてみたんだけど、何も言いやしない。あいつの知恵の泉の水を飲んでみたかったんだが、何も言わないんだ。たった一度、一言だけ言ってたがね」
(550)で「イワン」は「アリョーシャ」に「フリーメイソン」のことを話しています、ここで「ドミートリイ」は「神」存在のことを話していますが、私にはよくわかりません、「善」については、現実的には彼が言うように相対的なものでもありますね、「神」がなければ「善悪」もないのですから、「善悪」が相対的なものだとすると「神」も相対的なものになり、一神教がなくなりますね、それぞれの民族にそれぞれの神がいることになり、さらに自分には自分だけの「神」がいるのではないかということになります。
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